ダブルっち博物館

小6~高3まで両親の近距離別居型生活に巻き込まれたダブルっち君(1998年4月29日生まれ)も、晴れておかげさまで、フリーダム生活を満喫中です!f^_^;)笑

「#男性」にとっての3.11 とは(※雑学No.342,B.D.+199)

🏃🐣🐥🐤🐔
2023/3/17(金)
🐣🐥🐤🐔🏃
朝は、オトン(元ウチの人)からのメール・チェック(備忘録的なものなので、読み飛ばしを)。
水曜日は仕事の後、☐◇とREVOへ。木曜日は夕方から☐◇と税理士さんのところへ行きました。今日も☐◇が来る予定です。※☐◇:息子氏の名前
つづいて、菟田野のお義母さん(85)に、ラブレター書き(笑、同上で)。
おかあさん、おようございます(•ө•)♡
💛きょうは、カンカン キンカン 金曜日♪♪ですねッ🐝🎵 (*•ө•*)✨ということで、よろしければ、ご一緒にお願いしますねッ🐝🎵
カンカン キンカン  キンカンコン  キンカン塗って  また塗って 元気に陽気に  キンカンコン キンカン塗って  また塗って 明るい暮らしを  キンカンコン♪(2020CMソング)🐝🎶✨ゼイゼイゼイゼイ…ゼイゼイゼイゼ…♪(←息切れ寸前❓笑)
💛それでは、今日は、お久しぶりに『根っこばなし』より『乱心者にて候 🧔🏻🤼』という作品の第一回をお届けします📖🤭
前回は『たかちの山⛰️』というタイトルのお話でした👩‍👦
💛なお、『乱心者にて候 🧔🏻🤼』は、タイトルに魅かれて選ばせて貰った作品なので、物語が予期せぬ展開(?)になるかもしれないことを、あらかじめお詫び申し上げます(笑)🙇

『乱心者にて候 🧔🏻🤼』

むかし、
美濃の国の 七宋山の西(※賀茂郡方面)に 貧乏村があってな、⛰️
村に たった三軒きり 部落があったと。🏡🏠🏡


その仲間は、村の持ち物(※共有物)の番を して、 
身過ぎ世過ぎ しとったとよ。👷🏼


雪や 大雨で 山の木が 倒れたり、盗まれたり せんか、⛰️
日照りがつづけば 谷川の堰(せき)の具合、🏞️
やしろ(※神社)の 雪のけ、さんまい(※墓地)の 草むしり、🧑‍🌾
畑の番小屋で 猿や猪の見張り、🐵🐗
それに 村々への ぶえき(※労力の提供)に 差出されるのも 務めじゃったとよ。🧑‍🏭
(つづく)


たった三つしかない、色んな救済から取りこぼされてきたことが想像に難くない、そんな小さなムラから生まれ出た「乱心者」…、ちょっと気になりますね!(笑)

💛話変わって、「キンカンと言えば、はまだですけど🦟網戸せずに窓を開けてたら小さい羽虫が入ってくるシーズンになりましたね🐝散歩道に渦巻いてる羽虫も、急に増えてきましたね🐝平気なお互い、暖かくなった証拠の一つ一つと喜び合いましょうよねッ😉✨(蚊以外で😅)。それでは、明日の続きをお楽しみに❓今日も佳き日でありますように🐸🐸🐸🐸✨」

With "RyoRyo"(ウイズリョウリョウ)

そのあとは近辺ランへ行って、9,747歩(7.5㎞)走り歩きしました🏃🐱🌼🤧夜は『原発事故から12年、終わらない苦難の日々』(後編)の文字起こしをしました↓↓

✨🌒🌓🌔🌕🌖🌗🌘🏃

開催日:2023/03/13((月))、主催:放射線被ばくを学習する会、共催:富山大学・科学コミュニケーション研究室、テーマ:20230313【オンライン被ばく学習会】鴨下さん「原発事故から12年、終わらない苦難の日々」、出演:
カルガモ一家(鴨下さん一家)の鴨下祐也・鴨下美和・鴨下全生(まつき)さん×温品惇一(ぬくしなじゅんいち)・元東京大学分子細胞生物学研究所助教
✨🌒🌓🌔🌕🌖🌗🌘🏃

※中編のご紹介はこちらです:


※部分起こし
🌛1:06:22 鴨下美和・ひなん生活をまもる会等の事務局メンバー:https://newstsukuba.jp/43707/11/03/
 辛いことは 避難してるお母さん側は よく 言うんですけれども
なかなか 残されたお父さん側の声って 出ないんですよ
男の人って 辛いことは あまり語らないんですよね


たまに 辛いことを 語るときに
女の人って お母さんたちもそうだけれど 
大概 女性は 泣きながら すごく
「あれがつらかった ほんとにつらかった」って話すんだけれど
男の人って 笑いながら 話すんですよね 


なんていうか 自虐的な笑いをしながら
ハハハって 笑いながら 辛いことを 話すんですよ 
それが一番 むしろ辛いなと 私は思うんですけれども 


🌜1:07:06 鴨下美和
夫は 約2年間 福島で 残って 向こうで働いてくれました
でも 会う たびに 痩せていくんですよ
週末によく 避難してる私たちの方に来て くれるんですね
学校の仕事がが終わると


金曜日の夜に 車飛ばしてきてくれて
日曜日の夜中に 月曜日になる直前の夜中にですね 
帰って行くんですけれども


もう 来る たびに どんどん 夫が痩せていくし
髪の毛が 減ってゆく  白いものが増えるというか 
相対的に 白髪が 増えてるのかもしれないんですけど 
髪の毛が減るし  皮膚が年寄りのようになっていって
なんか だんだん もう どう考えても
夫が弱っていってるのが わかるんですよね


でも  最初のうちは 子どもたちがね すごい懐いて 
よじ登ったりいろいろするんだけど
それ が 見てて 痛々しいぐらいに 夫が弱っていって


それは  みんなが「大丈夫だ」って思って暮らしている場所で 
一人だけが 「この今の 汚染状態は危険なんだ」っていうことを 訴えてると
だんだん 差別されたり 攻撃されたりするように なる わけですね


最も アカデミックな職場にいるわけです けれども
アカデミックな人が やっぱり 真っ向から 否定してくるというか
で まあそうなると
あいつは アカデミック ではない」というような
評価を受けるように なってしまうので
それ自体 すごいストレスだったと思うんです 


やっぱり 学生のことを思っ てやっているのにまぁ
部活動 外でさせるべきじゃない」とか 
掃除は させるべきじゃない」とか 
そういう ことを 訴えれば 訴えるほど
まあ「おかしい人」という扱いになっていく 
「ちょっと 変な人だ」っていう扱いになっていく
そういう中で 余計  壊れていったんだと思います


🌜1:09:05 鴨下美和
もう一つは やっぱり 家族とバラバラに 暮らしていることですよね
家に帰っても 家 が冷え切っていて 
この 木のおもちゃ
夫は 3月11日のまま 家の中を 片付けられ なかったらしいんですよ


この 木のおもちゃで 子どもが遊んでいて 
もうそのまま そこに置いてあった


「それを見ると そこで遊んでいた息子たちの姿が重なってしまうので 
どうしても その木のおもちゃを 片付けることができなかった」っていう話を ね
震災から1年ぐらいしてから 言って


  春 望  杜 甫
 国破山河在、城春草木深。
  国破れて 山河在り、
  城春にして 草木深し。


 感時花濺涙、恨別鳥驚心。
  時に感じては 花にも涙を濺ぎ、
  別れを恨んでは 鳥にも心を驚かす。


 烽火連三月、家書抵万金。
  烽火 三月に連なり、
  家書 万金に抵る。


 白頭掻更短、渾欲不勝簪。
  白頭掻けば更に短く、
  渾べて簪に勝えざらんと欲す。


1:09:41
なんで ここに 漢詩があるのかというと 
よく 原発事故の後 人がいなくなってしまった町のことを表すのに


国破れて 山河在り、
  城春にして 草木深し。


っていうのが  結構 出てきてたと思うんですけれども


私は この詩を 「春望」を書いた時の杜甫が 実は 40代だった
そして 上の子が7歳 下の子が4歳 
男の子2人の お父さんだったんですね 


それ 私 知らなかったんですけれども なんとなく
詩のイメージとか 写真のイメージから 
おじいさんが書いたような気がしてたん ですが


実は 官僚になったばっかりの やっと官僚になれた杜甫が  
安史の乱 が始まって 危険だからということで
妻と子どもたちを 避難させるんですよ


で 一生懸命 避難させて
安全なところまで 安全な家まで なんとか 妻と子どもたちを連れて行って
そこで 生活が安定したら 
自分 は 官僚だから 皇帝のもとに 戻ろうとするんですよね  
ところが その途中で 捕まって  長安の都に 幽閉されてしまう


年表から見る と 45歳ぐらいなんだと思うんですよ 45歳ぐらい で
夫が 避難した時は 42歳なんですけれども 
だいたい 同じぐらいの年 そして 男の子が 2人 
上が うちは8歳 下が3歳と 8歳と3歳ですけど
  杜甫の子どもは 7歳と4歳だった
本当に 同じ ぐらいの歳の子どもがいる お父さんで


だとすると この3行目


時に感じては 花にも涙を濺ぎ、
  別れを恨んでは 鳥にも心を驚かす。


ここの部分が  ただ 花が美しいからじゃなくて 花を 一緒に見た時の 妻や子どものことを 庭の花とか見ると 思い出しちゃうわけです よね
まあ これ 庭じゃないかもしれないけど
同じ花を見ると その花を一緒に愛でた 妻や子どもを思い出す


 鳥にも心を驚かす 


これ 鳥の羽音って 子どもがパタパタ 走り回る音に 
鳥の鳴き声って 子どもの声に 聞こえるんですよね キャキャっていうような


鳥の声にハッとして 
庭にとか そこに 我が子がいるような気がして ハッと するんだけど 
次の瞬間に いるはずないよなって 気がつく
私は それで 驚いたんじゃないのかなって
この2つの詩を見ると 思うんですね


そして最後のところ


 白頭掻けば更に短く、
  渾べて簪に勝えざらんと欲す。


本当に まさに 夫は毛が抜けてしまって  1/3ぐらいに 毛が減っちゃったんですよね
で 「白髪ばっかり目立ってしまって  簪(かんざし)も刺さらないぐらいになって しまった」って杜甫は 書いてるけど
簪が刺さらないって 当時の男性にとっては 帽子がかぶれない つまり まあ官僚の資格がない なくなってしまうっていう そんな意味もあるらしい


つまり その 職場でも  もう なんていうか 居場所がない というか
そういう立場になってしまっている夫と すごく重なってしまって


杜甫も もう 仕事ができない状態に なって しまっていたんでね
なんかすごく その当時 の杜甫と重なるので この詩を残してました


🌛1:13:04 鴨下美和
私自身は 横浜で生まれて 福島で生まれたわけ ではない 横浜で生まれて
でも もう 幼稚園の頃から 当時  昭和40年代の横浜って 本当に 
川も海も空も 全部 すごく公害で ひどい状態で


幼いながらに それを見ながら「ここで一生 過ごしたくはない」と思っていて
「大人になっ たら いつか 水と空の綺麗なところに行きたいな」というのが
ずっと小さい頃からの夢 でした


で テレビには 春の小川 みたいなのが 出てきて
川岸につくしとかが 生えてるのを 観ると
「あんなところ  きっと日本のどっかには あるんだ」っていう 風に思って 憧れて育った
そして結婚して やっと 私は 福島に住むことができ て 


夢に見たような景色の中なんですね
つくしが 普通に生えてて それを採って 子どもたちに 食べさせるとか
山菜を採ったり きのこを採ったりできる
には 子どもが ジャブジャブ入って  遊んで サワガニ捕ったりできる
もう 本当に 夢のような世界で
そこに 一生涯 済むつもりで  家を建てた ローンを組んで家を建てたんですけれども


まあ 原発事故によっ て(横浜よりも)もっと 汚い場所にされてしまった


でも それによって 私は 東京とかに 戻ってきたというか
避難して もう1回 戻っ てきたかったわけじゃないんだけれども 戻って来た時に 


私が  幼稚園の頃 ドロドロに汚れてたが 今 が住んでるんですよ
がいて 東京とか横浜の 川って 昭和40年代よりは 令和の 今の方が
だいぶ 綺麗になってるんですね  それを見た時に 


「あ そっか これ 自然に綺麗になったんじゃない」って気 がつきました
「川とか大気汚染とか水素汚濁とか そういうものを訴えて 運動を起こして まぁ 公害病になった人がおられて それで いろんな方々が 裁判を起こしたり 声を上げて が綺麗になってたんだな が綺麗に なったんだな」っていうことがわかって


1:15:09
「ああ そうかっ」て  「私の仕事って それなんじゃないか」って
つまり
川を綺麗にしてくれた人 空を綺麗にし てくれた人たちがいたように 
私は これを 伝えていくことで 
被爆とか 放射能に怯えることのない社会を
次の世代 そのまた次の世代に 引き続いていく
足がかりをつくること が 私の仕事だろうなと 


1:15:36 鴨下美和
残念ながら もちろん 皆さんご 存知の通り 
放射性物質は 私たちが生きてるうちには  なくならないです


でも これ以上 増やさない 
そして 散らばさない 広げない 
それは 当然 伝えていけることだし


で 被害があったことは  話していかなければ 闘っていかなければ 
また  繰り返してしまうのだから


裁判とか 直近で アップダウンは あると思い ます
まだまだ 辛いことは いっぱい 続くと思うんだけれども
最終的に 安全な社会を 安全な国を  子々孫々に伝える
その 足がかり
だけでも 作りたいと 思っています
とりあえず 以上です


🌜1:16:17 鴨下美和
多分なんか 質問とかあると思うので あったら お願いします


私自身 2013年に 生業訴訟(「生業を返せ、地域を返せ!福島原発訴訟」)の原告団長である中島孝さんから 言われた言葉が あるんですね 


2013年の頃 まだ 私は 裁判を起こしたばかりで 
いわき市から避難した人なんて もう 避難者の中では もう最底辺なんですよ
どういう言い方かっていうと 
避難する必要のない場所から逃げ出した変 な奴ら」というか
もう なんていうのかな  あらゆることで 差別されるんです
「罹災証明書 持ってない」とか いろんな理由で 


で  まあ同じ避難者からも 背中を向けられたりとか
「いわきか!」って怒鳴られたりとか
そう いうことも すごく多くて


で やっぱり 私たちとしても 
津波で家族が亡くなったわけ でもなく
家に帰るなと言われてるわけでもなく
もうそれは「私たちより 辛い人 たくさん いるよね」っていう気持ちで 
「申し訳ない」っていう気持ちでいて 
「いわきだ」って言えずにいた


で その頃に その中島 団長に 何かで会った時に 
彼は 福島から逃げずに そこで声を上げてるじゃないですか
で  申し訳ない気持ちでいっぱいになって しまって たまたま 隣になった時に
中島さん ごめんなさい 私  いわきなんかから 逃げちゃって
って 思わず 言っちゃったんですよね


「逃げ出して ごめんなさい 中で こんなに みんな戦ってくれてるのに 逃げ出して ごめんなさい」って言ったら 
中島さんは ちょっと 怖い顔をして
あんた 母ちゃんだろ? いいか よく聞け どんなことが起きても  母ちゃんが子ども守ってるってのは 絶対に 正しいんだから 胸を張れ
って 言ってくださったん ですよね 


私が母ちゃんだったので
私が父ちゃんだったら「あんた 父ちゃんだろ」って 多分 言ったと思うので
それは 別に ジェンダーバランス的には問題ないと思うんですけども 


いろんな思いが あったと思うんですね
中島さんだって 逃げたいと思ったことあったと 思うし
家族を逃がしたいと思ったことも あったと思う

その中でも 逃げた私に対して そう言ってくれたんですよね
そこから 私は前を向けるようになったん ですけれども
すみません こんなところでいいでしょうか


なので 私個人は 戦争が起きたって  放射能が降ってきたって どんな時だって お母さんが 母ちゃんが お父さんが 親が 子どもを守ってるっていうのは 何より正しいという風に思います


1:20:37 鴨下美和
私たち3人に対して 本当に 質問とかあれば できれば 私たち 皆さんの質問とかで 深めていきたいなと いうふうに希望していまして


例えば「どんないじめにあったの」とかそういうのを 聞いてくださっても全然構わないですし 「どんな差別を受けましたか」とか言ってくださって いいです


ただ「一番 つらかったのは 何ですか」って言われると 「一番」って なかなか つけにくいので 結構 答えに迷うとは思うんですけどね


あとは「原発事故にあって 良かったと思う ことあります」かっていう質問は よく 記者さんから受けるんですが
例えば 「素晴らしいお友達に会える」とかね 
それこそ「中島さんに会えたこと」とかっていうのは 一瞬 思うんです けどでも
原発事故のおかげじゃないんです よ それは
原発事故なんて ない方が 絶対いいわけで 
「よかったことは 一つもないです」 と私は答え ますので 
その質問は 無しにしてください(笑)
(つづく)


🏃🌒🌓🌔🌕🌖🌗🌘✨

※今日の文字起こしのソースはこちらです:

開催日:2023/03/13(月)
主催:放射線被ばくを学習する会:http://anti-hibaku.cocolog-nifty.com/
共催:富山大学・科学コミュニケーション研究室
テーマ:20230313【オンライン被ばく学習会】鴨下さん「原発事故から12年、終わらない苦難の日々」、
出演:
カルガモ一家(鴨下さん一家)の鴨下祐也・福島原発被害東京訴訟・原告団長:https://iwj.co.jp/wj/open/archives/tag/%E9%B4%A8%E4%B8%8B%E7%A5%90%E4%B9%9F
×鴨下美和・ひなん生活をまもる会等の事務局メンバー:https://newstsukuba.jp/43707/11/03/
×鴨下全生(まつき、二十歳)・ローマ教皇の前でスピーチされた鴨下全生さん(16)スピーチ全文 | http://kansapo.jugem.jp/?eid=533
×温品惇一(ぬくしなじゅんいち)・元東京大学分子細胞生物学研究所助教
※趣旨:
311核惨禍から12年。福島第一原発4号機がたまたま定期検査中で、4号機の使用済み核燃料プールにたまたま水が流入したお陰で東日本壊滅を免れましたが、それでも16万人以上もの人々が避難を強いられ、生活の場・故郷を奪われ、「原発さえなければ」と書き残していのちを断った方もおられます。計1万人以上もの人々が311核惨禍の責任と賠償を求めて東電・政府を訴え、300名以上の小児・若者が甲状腺がんに苦しみ、7名の甲状腺がん患者が東電を提訴しています。
にもかかわらず、原発に固執する岸田政権は未だに責任を認めず、311などなかったかの如く原発推進に躍起になっています。311核惨禍がたとえ再現されても、原発から5キロ以遠の住民は避難させず、屋内退避させる方針です。このままでは被災された皆さんのご苦労が報われません。せめて311核惨禍の責任を認めて謝罪・賠償を拡充し、脱原発・脱被ばくの方針を決定すべきです。
3.13オンライン被ばく学習会(第85回)では、福島県いわき市から東京へ避難した鴨下さん一家の3人に、12年も続いている避難生活の苦難の日々、避難者訴訟の情況など、思いの丈を語っていただきます。鴨下さんたちと同じく、東京高裁で闘っている千葉、神奈川などの避難者訴訟原告団からも裁判の情況をお話しいただきます。皆さんのご参加を呼びかけます。
※関連資料はこちらです:
鴨下祐也さん資料(いわき市民訴訟・高裁判決要旨、原発の線量目標値は年0.05mSv)
http://anti-hibaku.cocolog-nifty.com//blog/files/20230313kamosita.pdf 
参考資料(鴨下全生(まつき)さん:「避難者であることを隠して生きよう」原発いじめに苦しんだ小学生の決断、
 いつまで叫べば伝わるのか  鴨下美和さん:広島地裁・意見陳述要旨)
http://anti-hibaku.cocolog-nifty.com//blog/files/20230313matukimiwa.pdf 
直近の避難者訴訟期日:http://anti-hibaku.cocolog-nifty.com//blog/files/20230313saibanns_c.pdf 
※動画の視聴はこちらです:https://www.youtube.com/watch?v=tCg8dfzcXqY
※関連動画のご紹介はこちらです:https://www.youtube.com/watch?v=UwrW6DBJlKE
✨🌒🌓🌔🌕🌖🌗🌘🏃

×

非ログインユーザーとして返信する