#原発事故から12年 とは(※雑学No.340,B.D.+197)
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2023/3/15(水)
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朝は、オトン(元ウチの人)からのメール・チェック(備忘録的なものなので、読み飛ばしを)。
「昨日は、一人家で冷凍餃子、チャーハン、トン汁。今日は☐◇が来る予定、夜は☐◇と食べに行きます。明日は夕方から☐◇と一緒に税理士さんに会います。」(※☐◇:息子氏の名前)
つづいて、菟田野のお義母さん(85)に、ラブレター書き(笑、同上で)。
「おかあさん、おようございます(•ө•)♡
💛きょうは、スイッチON、スイッチョンの水曜日♪♪ですねッ🎵 (*•ө•*)✨ということで、ちょっと時期外れですが、よろしければ、ご一緒にお願いしますねッ🦗🎵
♪あれまつむしが~ ないている~チンチロチンチロ チンチロリン あれすずむしも~ ... ガチャガチャ ガチャガチャ くつわむし あとからうまおい おいついて~チョンチョン チョンチョン スイッチョン... ♪🦗🎶✨ゼイゼイ…ゼイゼイ…ゼーイゼイ…♪(←息切れ寸前❓笑)
💛それでは、今日は、『Revo (レボ)/天下茶屋』さんより、続「お料理名当てクイズ」をお出ししますねッ(*•ө•*)♡一応、ヒントつきですけれども、それが必要なのは、ひとえに私だけデス…(・⊝・∞)(笑)
※なお、前回は「Revo (レボ)/天下茶屋」さんより「ヘレステーキ:ハンバーグ:ロースのネギ油添え」の料理名当てクイズをお出ししました🥩🍔🥬
※それでは、ヒントを出します(左から)
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✨一枚目:べ〇コ〇ク〇-〇パ〇タ🐷🍦
✨二枚目:カ〇ス〇パ〇タ🦑🍝
✨三枚目:す〇や〇風🐮🥚
※答えです
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✨一枚目:ベーコンクリームパスタ
✨二枚目:カラスミパスタ
✨三枚目:牛肉のすき焼き風
※変なやりとりです
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私「ベーコンとクリームのパスタ、ベクべク食べますた🎵( ´▽`)
カラスミパスタ系は、パス!たけ~!🎵( ¯꒳¯ )
すき焼き風を、お好きに お焼き?🎵(≧∀≦) 」
マスター「 勘弁してくださいよ❓ 🥶ガチガチ…」
✨🍚
💛話変わって、「パスタ」と言えば、「スパゲッティ」は、「穴が開いていない細長いパスタ」のことだそうですねッ🍝😋お互い、たまにはイタリアンで、ビタミンB群やタンパク質を美味しく摂りましょうよねッ😉✨それでは、次回は明後日3/17(金)になりますけれども、続きをお楽しみに❓今日も佳き日でありますように🐸🐸🐸🐸✨」
With "RyoRyo"(ウイズリョウリョウ)
そのあとは近辺ランへ行って、11,153歩(8.5㎞)走り歩きしました🏃🐶🤧夜は『原発事故から12年、終わらない苦難の日々』(前編)の文字起こしをしました↓↓
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カルガモ一家(鴨下さん一家)の鴨下祐也・鴨下美和・鴨下全生(まつき)さん×温品惇一(ぬくしなじゅんいち)・元東京大学分子細胞生物学研究所助教
※部分起こし
🌛鴨下祐也さんが3月11日深夜、原発が爆発する前に避難を決断できた理由
36:25 鴨下祐也・福島原発被害東京訴訟・原告団長:https://iwj.co.jp/wj/open/archives/tag/%E9%B4%A8%E4%B8%8B%E7%A5%90%E4%B9%9F
地震が3月11日にあって
原発事故が始まって で
そのちょっと後から 放射能は 漏れ始めたようですけども
3月12日の早朝 地震からは1日経つ前に
いわき市から 避難を始めました
本格的に 爆発とかする前に 実際のところ
もう いわきを離れてまし た
それはもちろん 地震による津波ではなくて
原発事故の始まりを予見し てというところですけども
「何で そんな早い判断ができたのかというところが重要なんじゃないか」
というご指摘を受け 確かにその通りだなって思いました
私が そこで決断できたのは もちろん
まぁ専門に比較的近い 微生物工学のドクターを持ってますけども
ただそれよりも 私が 今回この件で 避難できたのの一番大きい理由は
予備校の時の 科学の先生ですね 大西という 医学系の科学を得意とする方だったんですけど
その先生が 予備校の講師をする前に 核実験による放射性降下物 フォールアウトですね その研究をしてたそうなんです
で それを 授業中の雑談で 話してくれたことがあり まして
どういう研究かっていうと
まあ 大気圏核実験をやってる時に 東京 の研究所の屋上で ガイガーカウンターでこうやって 探すんだそうです
そうすると 高い放射線を放つ 目に見えないサイズの粒がある
だから 屋上面の中に 強烈な放射線を放つ点が 増えてくる 落ちてくるらしい
それを 多分 張り付くような感じで 取るんでしょうね
「粒は 見えない」っていう風に 先生がおっしゃってたので
で それを取って それの分析をしてた そうなんです
で まあ「そんなものが降ってきたんだからね それはもう それ 分かってから 毎日(頭髪が抜けないように)髪を洗ってたよ」って言ってたんですよ
「ただ こんな話は 外には出せないからね」って おっしゃってまして
そういうのの発表は 研究所内でやるときは もちろん 自由に 発表できるらしいんですけども
ところが その時には 必ず 国からお役人が同席してて で
その発表が終わると 「ここで発表された内容は 絶対 外には言わないでください」というふうに口止めをして 終わってたそうなんです
まあ その方は もう そこを辞めてから10年以上経ってるので
まあ すでに 大気圏核実験も 終わってましたし ね うん
まあ そういうものが 空から降ってきてる状況だったんだけども
研究者は知ってるけど 一般には言わない で
お役人も知ってるけど もう 一般には言わせ ない 外には出さない
「核、放射性物質に関わる物事に関して 専門家は知っていても それを 外には言わせ ないようにする仕組みが いい悪いは別として 世の中には あるし
まあ そもそも それは 簡単には測れないから 外に出していなくてもバレないからっていうのが あるんだ
だから なんか事故があったりしても 本当のことは 絶対 発表されないから 自分の頭で考えなきゃいけないんだよ」
っていうことを その塾の先生が言ってまして 「ふーん そんなもんか」って思ったんですね
さらに それを補強したのが チェルノブイリ事故の時に
まぁヨウ素が出てるのは確かだったので「日本まで 来てたらやだな」と思って
まあ1年ぐらい牛乳は飲んでなかったんですけども
まあ そろそろ飲んでもいいかと思って 牛乳は 飲み始めましたが
そしたら1年ちょっとですね 1年半ぐらい経ってから NHKのニュースで
「実は あの頃 東京 日本にも 放射性物質が来てて 牛乳から 検出され出たんだけど 今はもう正常に戻っ てます」って さらっと報道されました
「なるほど こういう風になることを 言ってたんだ やっぱり 確かに これは 分かってる人は分かってるけど 報道はされないから 核に関わる事故とか何かは結局 自分で判断するしかないんだな」って確信したのは それですね
それで 今回も「鼻と口をマスクか 布で覆って 原発周辺3キロの人は」っていうのをラジオで聞いた時に
「あ、もうこれは 出てるかもしれ ないし まあ出てなかったとしても まあ後から 言われてから避難したんじゃ遅いし まぁ多分 いわきに 対しては 特に避難の指示なんか出ないだろう」と その時に思って
自分で判断するしかない
で データも出ないから 結局 見込みでやるしかない というのは
これ自体が 相当なハイリスクの避難でした
だから「かなり無理して 避難をすることを決めた」というのが本当のところです
ちょっと そのあたりは 妻の方から 話があるかもしれません
でまあ そういうような状況に置かれてみて 「そういうエネルギーって使っていい の? 民主主義には合わないエネルギーなんじゃないか」っていうふうに 私は結局 思いました
私からは以上です
🌜鴨下美和さんが1時間も行列してようやく手に入れた牛乳を、祐也さんが目の前で流しに捨てたわけ
42:03 鴨下美和・ひなん生活をまもる会等の事務局メンバー:https://newstsukuba.jp/43707/11/03/
ありがとうございます
同じく 福島県いわき市から東京に避難 いたしました 鴨下美和と申します
ちょっと かいつまんで 夫が話していたので 私が 後でその残りを拾うような形になり
ますけれども
🌛59:20
避難して でも 東京まで逃げたら 大丈夫な気がしてしまっていたんですね
だから 私は 結構 東京に逃げてから迂闊で 雨に子どもを濡らしてしまったりとか
学校で 茶色くなるまで サッカーを子どもがしてたり とか
茶色というのは土ですね
校庭の土で 茶色くなるまでサッカーして たりとか
いくら東京でも そこまでやらせ ちゃいけなかったなって 後では後悔するんですけれども そんな日々でした
で 牛乳の話が出てくるわけなんですけど
3月確か17日ぐらいだったと思うんですね
東京でも 食べ物がなかなか 当時 手に入り にくくて 私 避難してほとんど食べ物がないんで 必死に食べ物を集めてたんですが 並んで牛乳1Lをようやく買ったんですね
避難した3月12日からというか その3月11日に被災してから 牛乳を全く 子どもたち に飲ませてなくて
それまでは 体にいいものだと思ってたので 毎日のように飲ませてた んですけれども ずっとそういうものを食べ させてだったので
牛乳を やっと1時間並んで 3歳の子どもの、男の子の手を引いて1時間並ぶのってすごい大変だったんですけど それでやっと牛乳を 買って 家に、というか当時住み始めた場所に戻ったら
夫が「なんで 今 牛乳なんだよ」って 泣きそうな顔して言って
で 私の目の前で その 牛乳パックを開けて 全部流しにジャーっと捨てたんですよね
で うちの夫は 結婚する前からも 結婚した後も
食べ物を捨てることは 一切 ない人 だったんですよ
食べきれなくても 取っておいて後で食べると
で もう本当に 食べれ ない 糸引いちゃうぐらい腐らない限り まず 捨てない
どんなに まずいものを作っても 必ず 全部食べる人だったんです
その人が 買ってきたばっかりの牛乳を 真っ白なまま
1リットル 全部流しに 目の前で捨てたでしょ
もう その光景って 未だに頭に焼き付いていて
もう 世界がひっくり返ってしまった気が した
「ありえない」と ものが言えなかったですね
で そこから 夫は さっきの話をしていてくれて その
牛、乳牛は 草を食べるから 影響を受けやすいっていうこととか
それから 牛乳っていうのは もともと混ぜて作る、品質を安定させるために 複数の産地のものを 年間通して 混ぜて作っていることが多い らしくて
なので産地ってのがあんまり当てにならないっていうことも含めて
「ちょっとこれからは 牛乳 とか 葉物野菜とか 小魚ってのは まず危険に
なるし まあ沿岸の魚とか そういうのも危険 になるよ」っていうのを
その日 全部 いっぱい 教えてくれたんですね
で 「これから先は 食べ物は 産地を選んで買わなきゃいけない し
今売ってるさつまいもはセーフだけども これから取れるのはもう危ないし
まぁ米は 今年の秋からだね」っていうようなことを 順番に話してくれて
結局 その数日後に 東京都の水道水が汚染してるっていうニュースが流れたり 飯館村のほうれん草が汚染してるっていう ニュースが流れてきて 全てが夫の言った通りに どんどんどんどん 後追いで ノストラダムスかと思うぐらい 全部予言が 的中するという そういう状態になって
まあそんな経緯で そこから先は もう 夫の言うこと聞いていくしかないというか
本当に わからないので 相談して 教えてもらって
で も 結局 また4月になるぐらいの頃に
夫の業務が再開されることになって 夫は福島に戻ることになるんですよ
で まあお金もないですから やっぱ仕事しない と 避難を続けられないので 帰らざるを得ない
ただ 夫が帰る時に
「もしも この先 原発で何かあったりしたら
絶対に こっちには来るな
もう さらに 子どもを連れて 西へ逃げろ
とにかく 僕のことは一切気にしないで 迷わず西に逃げてくれ」
と言って 福島に帰って行ったんです
🌜42:26
これは ごく最近撮ってきた いわきの共同墓地の写真なんですけれども
ここに 無理に行けて 去年の11月に行ってきたんですけど
まあ「死んだら帰れるな」と思ったら 急にホッとしたんですよね
「いつ 帰れるのかな」っ ていうのをずっと思っていて
「帰りたい けれども帰れない」と思ってるのが ずーっと重かったんですけど
「とりあえず 死んだら帰れる」って思ったら すごく気が楽 になって
それで今 この写真を出してます
🌛43:05
これは 先ほど息子も出していた写真なん ですけれども
事故の半年前の写真と 事故の1ヶ月前の写真です
で 私 講演のたび に いつもこの写真を使ってたんですけれども
これを使ってた理由は たまたまこの 2枚の写真は 携帯電話の中に残っていたからなんですね
逆に言うと これ以外に 事故前の写真が 長いこと なかったんです
結局 避難する時って 何も持てないんですよ
もう とりあえず 水とビスケットと あとは着替えで
もう最低限 子どもたちに必要なものとか そういうものしか持てない
とにかく 何も持てないので 思い出なんて 勿論持っていけないんですよ
アルバム とか
で もう 着の身着のままで逃げるので そういうその 子どもが作ったものとか 写真とか そういうも のっていうのは 避難所は 狭くて とても置けないし
避難住宅になっても 余分な広さって 余裕がないので
思い出を置けるほど 避難者の生活って広くないんですよね
で 長いこと 写真がこれしかなかったんで ずっと これだけ 使ってた んですが
先週 あるテレビ局が 取材に来た時に 普通に「昔の、事故前の写真を見せてください」って軽く言われたんですね
その時に 実は「困ったな」と 思って「昔の家が写ってる写真とか そういう写真 ないんですか」って軽く言われて で 「あの段ボールの山の中にあります」って
実は 今年2023年の2月の末に 福島から 大量に ダンボールを運んできたので もう 一部屋 今 箱で埋まっちゃってるところがあって そこを テレビ 局の人に見せたんですね
「あの箱のどっかにあります でも 私 もう 12年間見てないです」っていう風に言ったら テレビ局の人たちが一生懸命 箱をいくつか探ってくれたら 写真が出てきたんですよ
🌜45:09
これ 若いですね 先ほど発言していた息子が プールのビニールの中におりますけれども
はい 2005年の写真かな はい もっと前か もっと前から ちょっとこれ今 写真の日付のとこ 消えちゃってますけれども
私 これ テレビでカメラが回ってる時に 取材の最中で カメラ回ってたんです けど この写真が出てきた瞬間に 涙が止まらなくなってしまって
もう カメラ回ってるのわかってるのに 涙が止まらないんですよ
なんで悲しかったかって
夫ってこんな顔で笑う人だったんだな
って いうことを 忘れてたんです 12年間
なんかこんな普通に 笑う人だったんだなっ て
こういう表情って 私 12年間見てなかったんですよね
それに気がついたらもう涙が 止まらなくなってしまって
実際には ちっちゃなスナップ写真ですから 夫の 顔なんて 1cmもないんですよ
もっと 小さいのに それをパッと見た瞬間に 違うって気がついたんですよね
こういう写真を見た瞬間に 私 本当に
「あ、12年間 これ 見なくて よかったな
多分 途中で見たら 絶対 帰りたくなっちゃったな 耐えられなかったな」
と 思ったんですよ
本当に さすがに12年経ったから 今 泣くだけで 済むけど
これ 途中で見たら 決心ぐらついた と思うんですよね
でも 帰るにしたって もう この空間って どこにもないから
帰れないん だってことは 今 わかっているんです
だけど 「見なくてよかったな」って 思わずそこで ポロッと言ってしまったのまで 多分 テレビに取られてますね(笑)
🌛47:00
で これが2005年の 写真です
いわきには 冬になると こうやって白鳥が 川にたくさんやっ てくるんですね
ものすごく これ川を埋め 尽くすほど たくさんの白鳥が 来るんですけど
さっき喋っていたお兄ちゃんが こんなに ちっちゃいんですけれども
これが 普通の暮らしだったんです
そんなことを 完全に忘れているぐらい
もうずっと翻弄さ れていた12年間だったので
こういう写真を見てしまったら
ほんと つらかっただろうなと思って
出すこともできなくて
却ってよかったのかもしれない と思いました
🌜47:39
実は 似たような話が これ6年ぐらい前に
おそらく 多くの方がご存知だと思いますが
小林憲明さんという画家の方が書いて いらっしゃる『ダキシメルオモイ』シリーズです ね:
※「ダキシメルオモイ」の ページ!
麻布に 油絵で 避難している方や 福島で頑張ってる お母さんと子どもたち お
じいちゃん、お父さんが入ってるのも もちろん あるんですが そういう絵を ずっとこの 「抱きしめる」という視点から 描かれている方なんですが 私も この絵を 描いていただいたんですね
で この絵が出来上がった時に まずうちの下の子の 方が この絵を見て 文句を言ったんです
「嘘だ お母さん こんなに笑ってないじゃない か」と
「そうだよな」って
本当に 一瞬の表情を捉えて 絵にしてくださる方なので
私 これ 歯を見せて 笑ってるんですね
で これは 画家にとっては本来 タブーな絵でして
普通 美に値するものというのは 微笑なんですよね 微笑み
歯を見せて笑っちゃったら もうそこに あまり美しさはないので それは絵としては 普通はタブーなんだそうです
でも それでも そのタブーを超えて 小林さんというのは
笑顔が必要なお母さんには 笑顔の絵を描かれるし
休まれる 休みを取る必要があるお母さんには まるで瞑想してるような表情の絵を描かれる
本当に 祈りを込めて その瞬間の表情を描いてくださる方なので
この絵を 私たちがいないところで 夫は見た らしいんですけど
夫が 最初に言った言葉が 「原発事故前の妻がいる」と
本当に 私が12年経って 気づいたことです けど
夫は 6年経って それに 気づいてたんですよね
もう2人とも やっぱり 笑うっ ていうことを 心から笑うっていうことを
自分が 忘れてしまってるし 連れ合いが忘れていることにも 連れ合いが
笑わなくなってることにも 気づかないほど 必死だったんです ずっと
🌛50:00
とにかく 笑えるってすごい大事なことで
私たちなんて 本当に 家を失ったわけで も 人が死んだわけでもないのに
それでも 12年間の間 心から笑うことを忘れてしまう ぐらい
原発事故って 人を苦しめるんですよね
たかが 電気のために
電気なんて いろんな方法で作れるのに
たかが 電気のために
もう本当に 無数の家族がですよね
みんな幸せを奪われている 平和を 奪われてしまう
それが原発事故だな
というふうに思いました
(つづく)
※続きはこちらからご視聴できます:(1:03:26~)
※今日の文字起こしのソースはこちらです:
開催日:2023/03/13(月)
主催:放射線被ばくを学習する会:http://anti-hibaku.cocolog-nifty.com/
共催:富山大学・科学コミュニケーション研究室
テーマ:20230313【オンライン被ばく学習会】鴨下さん「原発事故から12年、終わらない苦難の日々」、
出演:
カルガモ一家(鴨下さん一家)の鴨下祐也・福島原発被害東京訴訟・原告団長:https://iwj.co.jp/wj/open/archives/tag/%E9%B4%A8%E4%B8%8B%E7%A5%90%E4%B9%9F
×鴨下美和・ひなん生活をまもる会等の事務局メンバー:https://newstsukuba.jp/43707/11/03/
×鴨下全生(まつき、二十歳)・ローマ教皇の前でスピーチされた鴨下全生さん(16)スピーチ全文 | http://kansapo.jugem.jp/?eid=533
×温品惇一(ぬくしなじゅんいち)・元東京大学分子細胞生物学研究所助教
※動画の視聴はこちらです:https://www.youtube.com/watch?v=tCg8dfzcXqY
※趣旨:
311核惨禍から12年。福島第一原発4号機がたまたま定期検査中で、4号機の使用済み核燃料プールにたまたま水が流入したお陰で東日本壊滅を免れましたが、それでも16万人以上もの人々が避難を強いられ、生活の場・故郷を奪われ、「原発さえなければ」と書き残していのちを断った方もおられます。計1万人以上もの人々が311核惨禍の責任と賠償を求めて東電・政府を訴え、300名以上の小児・若者が甲状腺がんに苦しみ、7名の甲状腺がん患者が東電を提訴しています。
にもかかわらず、原発に固執する岸田政権は未だに責任を認めず、311などなかったかの如く原発推進に躍起になっています。311核惨禍がたとえ再現されても、原発から5キロ以遠の住民は避難させず、屋内退避させる方針です。このままでは被災された皆さんのご苦労が報われません。せめて311核惨禍の責任を認めて謝罪・賠償を拡充し、脱原発・脱被ばくの方針を決定すべきです。
3.13オンライン被ばく学習会(第85回)では、福島県いわき市から東京へ避難した鴨下さん一家の3人に、12年も続いている避難生活の苦難の日々、避難者訴訟の情況など、思いの丈を語っていただきます。鴨下さんたちと同じく、東京高裁で闘っている千葉、神奈川などの避難者訴訟原告団からも裁判の情況をお話しいただきます。皆さんのご参加を呼びかけます。
※関連資料はこちらです:
鴨下祐也さん資料(いわき市民訴訟・高裁判決要旨、原発の線量目標値は年0.05mSv)
http://anti-hibaku.cocolog-nifty.com//blog/files/20230313kamosita.pdf
参考資料(鴨下全生(まつき)さん:「避難者であることを隠して生きよう」原発いじめに苦しんだ小学生の決断、
いつまで叫べば伝わるのか 鴨下美和さん:広島地裁・意見陳述要旨)
http://anti-hibaku.cocolog-nifty.com//blog/files/20230313matukimiwa.pdf
直近の避難者訴訟期日:http://anti-hibaku.cocolog-nifty.com//blog/files/20230313saibanns_c.pdf
※関連動画はこちらです:https://www.youtube.com/watch?v=SOmnA24ZVF0
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