ダブルっち博物館

小6~高3まで両親の近距離別居型生活に巻き込まれたダブルっち君(1998年4月29日生まれ)も、晴れておかげさまで、フリーダム生活を満喫中です!f^_^;)笑

悲しみをジャッジしない、測らない🖼️3.11との向き合い方(※雑学No.702,2024/3/11(月)~,B.D.+188)

地震関連のニュースはドキドキされる方もおられるかと思います。余裕のある方はよかったらお読み下さい
🌟🌛🌝🌜✨
2024/3/11(月)
🎓🌱💐🎼🍃


朝は、オトン(元ウチの人)からのメール・チェック(備忘録的なものなので、読み飛ばしを)。
「昨日はご苦労様。のんびりしました。今週は木曜日は仕事なし、土曜日はKさん家族と食事。今週の☐◇の出勤は、火曜日午前、水曜日一日、金曜日午後、土曜日午前です。」(※☐◇:息子氏の名前)


つづいて、菟田野のお義母さん(86)に、ラブレター書き(笑、同上で)。
おかあさん、おはようございまスミレ~💜🥶ガクブル・・・
 昨日は鶯とツグミの初鳴きを同時に聴きましたよ😍🐥🐦🎼🍃


💛さて、きょうは🎵忘るる 間ぞなき ゆく年月~🎵の月曜日ですねッ(*•ө•*)/♡🎓🌱💐🎼🍃
(『仰げば尊し』③番、明治17年(1884年))


💛ご存じであれば、よろしければご一緒に口ずさんでくださいねッ(*•ө•*)/♡🎓🌱💐🎼🍃


ε(c*´꒳`)🎤🎶
  ♫朝夕馴(なれ)にし 学びの窓
  蛍の灯火(ともしび) 積む白雪
  忘るる間(ま)ぞなき ゆく年月
  今こそ別れめ いざさらば


ε(c*´꒳`)🎤🎶
♪ ゼゼゼ ゼ… ゼゼゼゼ…ゼゼゼゼ… ゼゼイ…♪(←息切れ寸前の私😱)🎓🌱💐🎼🍃


💛それでは、今日は『根っこばなし』より『飛び立つ鳥🦅🪶』(第7回)をお送りしますねッ(*•ө•*)/♡


💛ちなみに、前回(昨日)は、
「明治の始めに、身分が無くなるとのお達しが出た後、飛騨、美濃の北部のムラは
山里の仲間にもそれを伝えようと飛脚を送りましたが、既に二軒の空き家以外には
住民も住居も残っておらず、道行く百姓に尋ねるも『村役場で聞け』と言うばかり
で急ぎ村役の家へ聞きに行くと、庭先に立ちはだかった村役が語ることには…」

というお話でしたねッ(*•ө•*)/♡


💛なお、『飛び立つ鳥🦅🪶』は、タイトルに魅かれて選ばせて貰った作品なので、
物語が予期せぬ展開(?)になるかもしれないことを、あらかじめお詫び申し上げます🙇↓↓


『飛び立つ鳥🦅🪶』(第7回)
「『さきごろ、このたび 身分が解けたうえに 他国で住まうも 勝手なら、
世渡りするのも得手次第じゃと 聞き知った。ならば わしらも お達しどおり、


今日を限って 立ち退くで、村養いは 御免にねがう。この秋 貰う限り米は、
残す祖先の 永代供養に、寺の和尚に 預けてくだれ』


とな。告げたまでは まともじゃったが、


(つづく)
✨✨✨


💛話変わって『♫仰げば尊し♫』と言えば🎓
私たち世代の密かな人気曲ですけれども、実は2011年に初めてアメリカで
楽譜が発見され作者名がわかったといういわくつきの曲だったそうですね🎼
( 詳しくは「日本経済新聞」 2011年1月25日版をご検索くださいね😅)


2011年と言えば、きょうはあの日ですね…💧


お互い、一日一日を大切にして、でも疲れたらしっかり
休憩もとって、ゆっくりぼちぼちいきましょうよねッ😉✨


💛それでは、明日も続きをお楽しみに❓😆
今日も佳き日でありますように💮😸👩🐸」  
         


With “Ryoryo”(リョーリョー)


💛そのあとは古墳ランへ行って11,859歩(8.2㎞)走り歩きしました🐐🦆🏃🍃ゼイゼイ… バタッ…♪♪ (←息切れしたウチ…😱でもその後にブログ巡りの至福が待っている…🥕🐎


💛夜は『東日本大震災とグリーフケア 』の文字起こし(要約筆記)をしました。


今、ネット上でクルド人の方へのヘイトスピーチが酷くていつれもれらも「50代の人が主にやってるらしい」とちょっと聞いていて、ほんでウチは今頃「今年50代最後の年や」と気がついて、ほんで「そんなおかしな50代は一部の人だけやでぇ」ということで、最後にちょっともうひとがんばりして、声をあげ続けようかなという風に思いました💦🌸↓↓


✨🌒🌓🌔🌕🌖🌗🌘🏃
配信日:2024年3月7日(木)、発信:TBSラジオ『荻上チキ・Session』、テーマ:ガザ侵攻/東日本大震災とグリーフケア、出演:佐藤慧×荻上チキ×南部広美
✨🌒🌓🌔🌕🌖🌗🌘🏃

※部分起こし(要約筆記)
🌝25:07 佐藤慧・フォトジャーナリスト、NPO Dialogue for Peopleの代表、両親が岩手県陸前高田市で被災:https://twitter.com/KeiSatoJapan


https://www.tokyo-np.co.jp/article/311503


僕も3月11日が近づくとやっぱり苦しくなる
んですけれども本当に多くの方に共通してい
ることかなと思うんですけれども3月11日
誰かしら何かしらやっぱ大切な何かを失った
日であってそれが僕にとっては母の命日なん
ですけど僕も震災後にやはり一時期動けなく
なったことがあってその後「グリーフケア」
というものを学び始めるんですけれども言葉


は少しずつ浸透してきてるかなと思うんです
けれども「悲嘆」とか「悲しみ」とか「悲し
みにくれること」を英語で「グリーフ」とい
う風に言うんですけどこの「グリーフ」はな
かなか人によって様々に違うと思うんですけ
れども僕の思う「グリーフ」はその人が思う
切なものとの別れ、喪失なんですで自分の
一部だと思ったものを失ったその空白をケア
していくことを「グリーフケア」というので
はないのかなと僕は思っているんですけども


少し不思議に感じられるかもしれないんです
けれども「グリーフケア」は必ずしも「回
復」であったり「受容」であったりを目指し
ているわけではないんですね
「悲しみ」とい
うものの価値をきっちり認めることでそれに
向かっていく過程、その悲しみと向き合う過

程を周りの人が見守るというのが「グリーフ
ケア」なので実際僕からすると「グリーフ」
は今も物凄い重しとして心の中に残っている
んですけど
ただそれと向き合っていいんだと
知識として得られたという事は僕の「グリー
フケア」からの学びでは凄く大きいことでし


で実はこれは僕がフォトジャーナリストと
して様々な戦地などで本当に大切なものを失
われた人々にインタビューしたりということ
を繰り返す中でもそれを学んだことの大切さ
を実感することになるんですけれどもやっぱ
「悲しみ」は比べられない、比べてはいけ
ないものだと思ったんですね例えば僕はこの
東日本大震災で母を失っていますけれどもそ
うすると周りで「いや、でも自分は身内を失
ってないから」と自分の悲しみを押し込めて
しまったりとかする人がいるんです
けれども

仮にそれが他者から見た時すごく些細なもの
に見えたとしてもその当人からしたらかけが
えのない重くて大切なものなんですね
だから


「悲しみ」を勝手にジャッジしない測らない
そしてその「悲しみ」への態度
「悲しみ」
が単なる人生の中でのネガティブなものでは
なくむしろ大切なものに気づかせてくれると

いう自分にとっても凄く大切な経験でもある
ということにも気づかせくれて
それは今の戦
地などでの人々への取材にも繋がっていると
いうことを思うと言葉は慎重にならなければなりませんけども「僕は本当にこの
経験、母との死別という出来事から沢山のも
のを頂いてきたな」という風に感じています


🌝18:27 佐藤
それでこの後津波被害とそして僕の母との死
別の話が少し出てくるんですけどもお聞きの
方で心苦しくなられた方はしばらくこの場か
ら離れるなどご注意いただけたらと思います



https://gendai.media/articles/-/75688



🌝18:37 佐藤
それで両親と連絡が取れないということで岩
手に向かっていたんですけれども途中で見慣
れない電話番号から電話が来て出ると父だっ
たんですよねで当時父は陸前高田市の町の中
央に位置している県立高田病院で働いている
医者だったんですけれどもその建物は4階建
ての建物で陸前高田市は2万数千人位が住ん
でいる本当に小っちゃい市なのでその病院よ
りも高い建物なんてほとんどなかったんです
けれどもその病院の4階にいた患者さんを屋
上に避難させようとしていた途中で父は津波


にあってでも幸いなことに寝ていた患者さん
のエアマットが浮き上がったおかげで父は外
に流されることなくそれに捕まることができ
ということだったんですけれどもその後屋
上に避難した140人の方と凍えるような一夜
を過ごしていたんですけれどもその夜は宮城
県の気仙沼市大規模な火災が発生していて
それが煌々と燃える光景が見えていたという
ことでその翌日ヘリコプターで救助されて近
くの中学校で仮設の診療所などが開設されて
父は診療に当たったりするんですけれどもそ
の後精魂尽きて内陸の病院に搬送されてきた
所から僕に電話をくれたということで僕は内
陸の盛岡を目指して向かっていた所だったん
ですけど父と会えたことでどこか安心してし
まったんですよね「津波が来たとはいえ人間
やっぱり足があるし歩いて逃げられるし高台
なんてちょっと行けばあるだろうから母もき
っと生きているだろう」とその時は本当に思
っていたんですただそこから先もどんどん色
々な情報は入ってきていてどんどんどんどん
身元不明者の数が膨れ上がっていく中でじゃ
あ連絡が取れない母はどこにいるんだろうか

父と一緒に内陸から沿岸の陸前高田市を目
指すことになって
その途中で「あ、自分の
中の津波というものの認識が非常に甘かった
な」ということに気づくわけですけれども


ょうど10日後の3月21日にやっと陸前高田市
にたどり着いた時はもう市街地がなかったん
ですね市街地がごっそりないというのを見て
「あ、父が生きてたんだったら母もどこかに
いるだろうと思ってたのはどれだけ甘い想像
だったのかな」ということを思いましたよね


https://gendai.media/articles/-/75688



🌝21:47 佐藤
それでも僕は色々な仮設の避難所とかを巡り
母の行方を探し続けていたんですけれどもや
はり見つからない中で地元の知り合いの人に
会って「お母さんにはもう会えたの?」とい
言葉をかけられたんですよその「会えたの
?」という言葉はどういう響きを当時持って
いたかというと「もう遺体は見つかったの?
」という意味でしたもう10日経っても連絡が
取れていない人は「おそらく流されているだ
ろう」ということで既に多くの人は遺体安置
所に足を運んでいましたし当時被災地で毎日
遺体安置所に通って居並ぶ数百の棺の中を覗
き込んで歩いている「これが愛する人なのか
そうじゃないのか」を判別して歩いてる人の
一人に僕も例に漏れずになってやって毎日毎
日遺体安置所を巡り歩くいたわけなんですけ
れども結局母は見つからなかったんですよね


幸い僕はその後警察に届けを出していて「も
もしかしたらあなたのお母さんかもしれない
遺体が見つかったよ」という連絡が入ったの
が4月9日のことでしたなぜそれが「母の遺体
かもしれない」と分かったのかと言うと
母の
目撃証言を探していた時にうちでは2匹の犬
を飼っていたんですけど「津波が来る5分程
前にその2匹の犬と一緒に避難所に歩いてい
く様子を見かけた」と言う方がいたんですね


なので「もし母が見つかるとしたらその2匹
の犬と一緒に見つかるんじゃないのかな」と
なんとなく思っていたんですけれども
その警
察が見つけた遺体というのは身元を証明する
ものは何も持ってなかったんですけれども犬

のリール、散歩紐をギュッと握りしめていた
んでおかげで見つかったわけですけれども
が見つかった場所というのはまさに僕と父が

生まれて初めて目にした海から10km近く離

れた地点の海の泥と瓦礫の下だったんですね


🏃🌒🌓🌔🌕🌖🌗🌘✨

※今日の文字起こしのソース(情報源)はこちらです:https://www.youtube.com/watch?v=JWFypHXhpyU

配信日:2024年3月7日(木)
発信:TBSラジオ『荻上チキ・Session』
テーマ:ガザ侵攻/東日本大震災とグリーフケア
出演:
  佐藤慧・フォトジャーナリスト、NPO Dialogue for Peopleの代表:https://twitter.com/KeiSatoJapan
×荻上チキ・「社会調査支援機構チキラボ」代表:https://twitter.com/torakare
×南部広美・フリーアナウンサー:https://www.tbsradio.jp/personality/nanbu-hiromi/

※動画の視聴urlはこちらです:https://www.youtube.com/watch?v=JWFypHXhpyU
※関連記事のご紹介はこちらです:
https://gendai.media/articles/-/75688?page=2(2020.09.17)

https://www.tokyo-np.co.jp/article/311503(2024年2月27日)

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