ダブルっち博物館

小6~高3まで両親の近距離別居型生活に巻き込まれたダブルっち君(1998年4月29日生まれ)も、晴れておかげさまで、フリーダム生活を満喫中です!f^_^;)笑

Welcome to Osaka from Myanmar, Ms. Maung Maung!⚽

前回の記事を読んで頂いた皆様、他の回の記事も読んで頂いた皆様、そして、
19の頃のお話をお聴かせて下さった皆様、どうもありがとうございました。
心の耳👂が磨かれました。



わたしは 大阪は堺市に住んでいます。
三国ヶ丘駅は 最寄り駅ではありませんが
天牛堺書店(てんぎゅうさかいしょてん、1963年創業)ではよく古書漁りをしていました。


その天牛堺書店が 昨年
鮪屋さんに変わっているのを見かけ
軽い喪失感を味わいました。



三国ヶ丘駅と堺東駅間の距離は 2㎞足らずです。
一昨年は、宮内庁の方らしき人たちが、三国ヶ丘の仁徳陵の発掘調査に
お見えになっているのを 時々 駅前の信号付近でお見掛けしました。



皆、堺東にお宿をとられていたそうでした。
公務員の方は、2㎞以上じゃないと交通費が出ないので
みなさんは、三国ヶ丘の職場までの道を 毎日往復されていたようでした。



お仕事帰りには、天牛堺書店で 古書を1冊買い求められ
堺東のお宿に戻られると
夜はそれを読んで時間をつぶされていたそうでした。



わたしの宮内庁へのイメージが一変しました…。
以上、 “お国自慢” をちょっとしました🔪




それでは、今回は、某「リバティおおさか」閉館3日前の、今年5月28日、
「証言の部屋」ブースにて視聴して来れた、大阪で初めて難民認定されたミャンマー人、
マウンマウンさんのお話を始めます。



himekichiオジサンによる拙い要約筆記ではありますが
読んで 一緒に 23歳の頃にタイムスリップして頂いて
何か一つ 持ち帰って頂けたら幸いです👧👦







『難民申請と入管施設への収容』マウンマウンさん(1968生まれ)





1988年、私が二十歳の年に ミャンマーで全国デモがあって


私は 犬の背中に 国のトップの顔を貼って


「We don't need!」と書いて デモに参加しました。





私の友だちは、それが証拠写真となって


1989年に 刑務所に入れられました。


私は、すぐには知らなかったので、普通に生活していました。






それがある時、友だちのお母さんに会って「大丈夫だったのですか」とビックリされました。


お母さんは大慌てで、私を人目に付かない所にかくまい


「見つかったら捕まるから、すぐにも家から離れた方がいい」とアドバイスくれました。






私は、一週間で家を離れて、ミャンマーとタイの国境のチェンマイに逃げ


そこのリス族の村の 偉い人の家で


1997年まで9年間、仕事して、食事させて貰いました。


https://www.misanga.com/blog/2018/10/02/post-975/ より



その後、タイから逃げて、ブローカーを探して


韓国しかビザは出ないと言われて


おまかせして韓国入りしました。







1998年に、アウンサンスーチーさんの率いる国民民主連盟(NLD)のメンバーになって


一緒にデモしました。そしたら、大使館の人に ビデオや写真に撮られて


軍事政権の手に渡りました。





2000年に、私は


国連高等難民弁務官事務所(UNHCR)に難民申請をしました。


行った先の韓国は、難民を認めていなかったので






オーバーステイとして捕まったら ミャンマーに帰されることがわかり


日本へ行けば私を認めてくれるかなと思って


2001年10月7日、釜山から コンテナ船に乗って 神戸に来ました。





朝11時に日本に着いて、入管の職員にすぐ捕まりました。


警察で取調べを1ヶ月、


それが終わると拘置所に送られ2ヶ月、






続いて、神戸入管に 1週間施設収容の後






私は、西日本入国管理センター(茨木入管)に 1年半入れられました。





もしミャンマーに送り返されたら


政府は、私が軍事政権に反対するデモに参加している写真を持っているから


絶対、刑務所に10年以上入れられると私はわかっていました。







入管での生活は、びっくりするものでした。


最初は4人部屋で、すぐ10人部屋へ変わりました。


朝8時に起きるとご飯、パン、卵が出て





後は狭い部屋でそっと生活しました。


運動とシャワー(1回45分)は週3回で、凄く厳しいでした。


病気になっても、すぐに医者に診て貰えず、1年5カ月、外を見れませんでした。







私は、日本語を 入管内の本で勉強しましたが、


ボールペンは 朝8時に頼んで


夜8時に毎日返さねばなりませんでした。







自分の食べ物の差し入れも 缶、ビンの持ち込みもできない。


服と本しか持ち込めない。


固いものは ダメでした。







悔しかったのは


私は、犯罪者じゃないです


でも、犯罪者と一緒に生活させた 日本の入管の法律は おかしいです。






私は、背中の痛みで 夜寝られなくて 眠り薬を頼んだことがありました。


そして、小さなクリニックでは出せないから 外に申請すると言われて


2日待って 薬を貰いました。







ある時、


いつものように 薬を貰いに行ったら


「なくなった」と言われました。






「何故なくなる前に知らせない?」


「紙見たらわかるやろ」


「漢字で書いてあるから私、わからないもの。病院に電話して下さい」






「できない」


「じゃあ私、どうやって寝るの?」


二人返事がない。







怒って、部屋のゴミ箱で ドアを叩いたら ゴミ箱が壊れました。


そしたら、8人の職人が、


手袋をして、機動隊の格好をして、中に入ってきました。





そして、「懲罰房」というところに入れられました



僕は、後に、この「懲罰房」に「スペシャル・ルーム」と名付けました(笑)







ここでは言えない 悪い言葉を いっぱい言われました。


職員を 皆は「担当さん」と呼ぶのに


私達には「先生」と呼ばせました。







仮放免のきっかけは


2003年の4月1日に、国連の「マンデート難民」に認められたおかげで


4月9日に 仮放免になりました。







仮放免というのは


毎月入管へ行って延長手続きをします。


交通費が往復2,000円かかる。




でも仮放免中は、仕事をしてはいけない。


(就労ビザがない)


保証人さんも 何年も 僕たちの面倒をみれない。







僕たちも人間です。


仕事できないと どうやって食べますか。


大阪の外へは許可を貰わないと出れない、は 本当の自由じゃない。








僕にも、入管には 


出来れば 思い出したくもない後遺症があります。


でも、裁判に負けたら もう一回収容される恐れがあります。








僕は 日本へ来る前


日本は アジアで一番自由な国、人間を人間と見てくれる国と 思って来たけど


間違いました。






日本で 警察官に目の前で


「外国人は犯罪者だ」と言われました。


僕は そのことが 絶対に忘れられません。






何も悪いことをしないのに


なぜ 同じ人間として分かってくれないんだろう。


なぜ 難民たちは こんな嫌な思いをしなければいけないんだろう。






難民の人たちが 同じ人間として


今まで 自由なしで 生きてる事が 


僕は とても悲しいし、悔しいです。







早く自由になりたいです。


日本の政府が


日本人だけの自由ではなく






今のミャンマーの状態を 考えてくれて


難民の人たちに対して 難民として 認めてくれるように


皆さんの力で 助けてほしいです。




(2005年、リバティおおさか・マウンマウンさんへのインタビューより)




《マウンマウンさん・profile》


名前:Maung Maung
生年月日:1968年2月14日
国籍:ミャンマー
趣味:歌を歌うこと・サッカー・K-1
好きな食べ物:バナナ・マンゴー




1988年 ミャンマー民主化デモに参加
1989年 家から離れて、ビルマ・タイ国境にあるチェンマイのリス族の村に約9年間避難

1997年 タイを経由して韓国へ逃げる
2000年 韓国政府と国連に難民申請
2001年 韓国から日本に来てすぐ日本の西日本入国管理センターに収容
2003年4月 国連から難民認定
2003年4月 入国管理局から仮放免になり収容施設から出る
2004年7月 日本に難民不認定取り消しの裁判を起こすが、大阪地裁での1審で
     「NLDの平メンバーなので国に帰っても迫害されない」と判断され敗訴
2005年6月15日 大阪高裁での2審で「難民として認めなかった法務省・入国管理局は
        その判断を取り消しなさい」という判決が下り、難民認定を得る






※画像は、青木孝嗣(たかつぐ)さん(1981年生まれ、在日難民支援ネットワーク「RAFIQ」代表)のHP等からお借りしました。




2005年、リバティおおさか・青木孝嗣さんへのインタビューを追記します。





毎日、10人ちょいの難民の方が相談に来られます。


今まで5、60人の方に会ってきました。


きっかけは'01.9.11テロでした。





アフガンへの攻撃に違和感を感じて、


'02.年5月、'03年1月、'04年6月~7月の3回、


アフガンへ行って難民キャンプの視察などをして





日本でも出来ることがないかなと帰ってきたら


えっ?なんで日本では難民が捕まっているの?


と思って






「難民は犯罪者じゃないんだ。早く難民と認めて下さい」という


マウンさんの声を 報道で 聞いて


西日本入管センター(茨木市)で 彼に会いました(2002年)








マウンさんの暮らす茨木入管は、運動の時間も限られていて


外の病院への受診は 腹膜炎や 前立腺炎のような重症でも


1~2週間待たされていました。






その上、難民のストレスを 抱えながら入っているので


パニくる事も 仕方ないと 思うんですけれども


パニくったら 懲罰房へ入れられます(マウンさんはスペシャル・ルームと言うんですけど)。






また、多くの人が眠れないです。


茨木市は 大阪府内でも ちょっと寒いんですけれども


蒲団が 配布されないんです。毛布5枚だけです。








夏は、空気中から


自由が 一切無い中での 衛生状況の悪さから


疥癬や 水虫に みんな罹りますし






冬は 凄く寒い時以外 エアコンがつかないので


みんな 風邪に罹ります。


肝炎の人もいるのに 髭剃りは 1つを使い回しさせられています。







いつ 出れるのか?


帰りたくても 国には帰ることはできない中で 自殺願望者も多く


ボールペンや 洗剤を 自分の持ち物に 持ち込んだら 返させられます。








マウンさんは、入管した人の中で 最も 精神力の強い人で


ノイローゼには なりませんでしたけれども


あるアフガンの人は





入管を出て すぐ


数カ月の 入院となりました。


タリバンに 1回拷問されていて





入管で また それを思い出して 悪くなり


PTSDが 治らなくて


治すことが 不可能に近いです。







僕は今、23歳で


こういうことを 知っていれば


もっと 自分なりに 出来ることがあったと思うので、






一人でも 多くの人に


1つでも 多くの事を 知ってほしいというのが


まずあって、






僕らが 今のままでは


絶対 


いつか 衝突してしまうので、






どうやって 一緒に暮らしていくのかを


それが 日本人の問題だと思って


もっと もっと 考えて、



 


「母国に帰れ」と言ったり


「外国人はみな犯罪者」と言ったりは


日本人にも 跳ね返ってくると思うんで、





本当の意味で


心豊かに


生きて行けるようになるといいな、と思います。







<完>






お時間頂き、ありがとうございました🙇

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