ダブルっち博物館

小6~高3まで両親の近距離別居型生活に巻き込まれたダブルっち君(1998年4月29日生まれ)も、晴れておかげさまで、フリーダム生活を満喫中です!f^_^;)笑

働く人々~港湾労働者のお仕事~


前回の記事にナイスを下さった沢山の皆様、そして、更新が無くとも毎日ポチを下さるお一人の方様、ありがとうございます🙇お陰様で、短い期間に、次の記事を更新する事が出来ました🙌



今回の記事は、「夜の港湾工事の写真は駄目」と言われる方以外の方に、読んで、一緒に19の頃にタイムスリップして頂いて、何か一つ、持ち帰って頂けたら幸いです👧👦



某「リバティおおさか」閉館2日前の、今年5月29日、「証言の部屋」ブースにて、元港湾労働者で『無縁声声――日本資本主義残酷史』の著者、平井正治さんの深いお話を視聴して来れました。himekichiオジサンによる拙い要約筆記ではありますが、是非ともご鑑賞ください😅







(画像は、『大阪市大正区の災害・事故 の報道写真』『中島敏フォトアーカイブ1969』、報道動画『またも川底の悲劇 =大阪府 尻無川(1969年)』からお借りしました。)








【『釜ケ崎とともに生きて』平井正治さん】





15歳(1942年)から、京都の大林組飯場や映画撮影所におりまして


34歳の年(1961年8月1日)に、白黒TVに“第一次釜ヶ崎暴動”が映りまして


ここでは、18歳(1945年)の敗戦後に、闇屋をやっとりまして


以後も時々、働きに来とりましたんで






TVで観て、その日のうちに、梅田に着いて


そこから、1時間歩いて、霞町まで行ったら


交差点は、石ころだらけでした。


鉄道の線路の石が、弾になっとりました。





(※1961年の第一次暴動。右上の西成警察署に向かう群衆と、画面左の阪堺線上の群衆。

警察6,000人動員)






暴動のキッカケは、交通事故にあった釜ヶ崎の老人の方を


西成署(警察)がまだ脈があるのに


放置したからやったんですが


8月2日の晩は、ヤクザが、霞町の群衆に対して






「町内の人が迷惑しております。みなさん、お引き取りください」と言うて 


猟銃を発砲したり 日本刀で切り込んだりするのを、見ました。


あれは(後々言われたような、警察の賄賂とかでなしに)


やらんと 自分らが労働者にやられるから やったんやろうと思いました。









店のガラス割って、中の物をみな盗っていったのは、釜ヶ崎の人やありませんでした。


あれは、そういう層が潜入してやっとりました。


釜ヶ崎には,、炭鉱争議で、労働運動を経験した人が大勢 おったんです。


せやから、自ら、警察の弾圧の口実になるようなことは、やらないんです。









警察が「リーダー、おらんのかー」と叫んだ時には


釜ヶ崎の人は「リーダーおったら、ここまでできん!」と応酬しとりました。


最初は、労働者が勝っとりました。でも、それから後、どうしようかという目標がないもんで


大阪府警に鎮圧されて、その際、死傷者が随分、出とりました…。








39歳の年(1966年)に


「港湾労働法」が施行されました。


3年ぐらい前から、国会審議に


かけられとりました。






当時、神戸港の日雇い労働者は


手配師に殴り殺されたり


荷物の下敷きになったり(※圧死させられたり)して


毎年、何十人もが、引き取り手もないまま、火葬されとりました…。






働いても、働いても


風呂代、弁当代、


博打、ヒロポンと吸い上げられて


気に入らんと、団に殺されとりました。







ニコヨン(※1日240円、百円札2個と十円札4個。戦後の失対事業のこと)とは


はっきり違うんです。


けど、手配師らは


「これがアメリカの制度の見習いや。港湾だけ社会主義になるんか」と言うとりました。








ところが、この年の港湾労働者は、「賃金が随分安い」というんで大騒ぎ。


ガラスは割れるわ、


それを盾に 3,600人が 


(実名を隠して働いている人が多いんで)






白手帳(※日雇雇用保険手帳)の番号で


自分の怪我した会社へ、訴えに行きよる。


たかられたら困るんで、企業からも、苦情が来る。


そういうことが、法律制定の背景にありました。










その当時、港湾は、


スクラップアンドビルド


(※古くなったものを壊して、新しく建て替える仕事)が


多かったんです。






大阪港の潜水員は


銅や真鍮等の色物のスクラップが、余禄になると言うんで


関税法違反や窃盗になると知ってても、持ち出して


重みで、下に下がって、年に24~5人が死んで逝きました…。







それから、当時、イギリス船で東アジアに来るのは


みなボロボロ船やったんで


41歳の年(1968年)に、船のハッチを直す作業で


4人が墜落死しました…。




(※大阪港での港湾労働者のスクラップハッチ内作業風景。

ワイヤーで編まれたものがモッコで2個見える)







このことは、NHKが、朝のニュースの「近畿の話題」でとりあげて


出てきた人が、港湾業者、役人、大学の先生で、


その人たちが皆


「日雇いさんは、お日さん西西(※早く帰りたいばかり考えて仕事してない人)だからねえ」と言ったり





「根性がないからねえ」と言ったり

労働者に責任をかぶせる発言ばっかりしたもんで

「危ない仕事ばっかりをさせといて!」

と、そらみんなは怒りましたわ。







「教えるのは皆、日雇いやのに、仕事覚えると、馬鹿にし出す」


と、最初は、労働者同志、いがみ合いをやっとりましたが


監督が「西成から来たお前ら(※白手帳)は、皆200円付いとるやないか」と言うてきたので


「青手帳(※白手帳の港湾労働者版)のヤツは、ボーナス付いとるんやぞ!」







と、労働者は応戦して、皆で、抗議の座り込みを始めました。

これは、私から始めたんです。

賃上げは、殆どが、現場闘争で勝ち取っているからです。

「みんなでやれば取れる」ということを、労働者は、覚えていきました。











42歳で、1970年4月10日と17日に、24時間の港湾ゼネストをやりました。

その頃、4年間で、東アジアにやって来た1.5t船は、やっと57隻で

停船料が、飛行機よりも高くつく(約600万)ので、仕事に出れたのは300人だけ。

3,000人があぶれたので、手当てを貰って、ストをやりました。





「国賊も 時には 世の中の為になるのや…」


あの風景は、歴史上の、湊の夜明けでした。








42歳の年(1969年の11月25日)に


(水門が未完成の)尻無川で 


毎夜、11時頃まで、19人が残業しとって


ボルトの手抜きで、ドーンと、爆発が起こりました。






ケーソンが、上から急降下してきて


水も、下からすぐ湧いてきて


シャフトの中間に、全港湾の事務所があって


そこの8人は皆、上がって助かって






あとの11人は


4日目に全部


上がりました…。


(※ご遺体で)









ボルトは、ロックとシャフトを繋ぐフランジに留めてあるもので


尻無川水門工事に 使われとったボルトは


JIS規格に沿わない無印ボルトで、3~4割が強度不足やった他


リサイクルでした。














60歳の年(1987年)には、“天博”があって


野宿されてる方が皆、


追い出されました…。


お決まりのパターンなんですけどねぇ。








56歳の年(1983年)に


“大阪城築城四百年祭”があって


クリーン作業は


その時から始まっとりました。







御堂筋から大阪駅まで、野宿者が多かったので


排除する為に、警察が聞き取りをやって


パレード直前に、話を通してある100人ぐらいの手配師が


野宿者を、連れていったり、売ったりしました…。






63歳の年(1990年)の花博では


一心寺や 四天王寺辺りに、野宿者が多いと言うんで


「天王寺公園を有料化してくれ」の口実に


使われとりました。






テントが張られていた所に


機動隊と


パッカー車が来て


下請け業者を使って






野宿されてる方は


昼間、屑物拾いとかに出ていて、留守で


身分証明書をテントに置いてる方が多いんですけども


全部、ゴミとして なくなっておりました…。





ごく最近も


「これは私物だ」と言って


テントや所有物が、予告なしに


撤去・処分されとりました…。










だもんで、私は、死亡者のことが、ずっと心に残っとるわけです。


危険には、日雇いが行かされる。


1年に、24、5人が死んでいる。


本工は、あんまり死なない。







日雇いは、現場の出席帳簿とかに


自分の名前を、皆好きなように書いとるんです。


「山川 鹿之助」とか…(笑)


「佐藤 栄作」が、2人おりましたなあ(笑)







私は、


せめて、死んでからでも


ひとりひとりの保証金を、親に届けて


「立場」を取ってあげたいなあと 思っとるんです。







奥さんは、勿論、たいがい、


「知りません!」と、電話を切られます。


不義理があったんやなあと。でも、何回か掛けてたら


「一ぺん 大阪へ 行ってみます」と言うてくれたりします。









危険多いから、だいたい


肝臓、肺結核、首吊り、水死、脳溢血…と


そういう、死に方をしとりますんで


追徴金も来ます。







それも


手掛かりを元に


役所より先に 住所を見つけてねぇ


…………。



















平井正治さん・プロフィール




1927年大阪市生まれ。


1961年より大阪釜ヶ崎に居住し、日雇い労働。住民運動などにも参加。


1966年、大阪港登録港湾日雇い労働者となり、全港湾労組大阪港支部執行委員、副委員長など歴任。


2011年(平成23)2月8日、西成のアパートで死去判明。


享年83歳。



◆  ◆  ◆



1927年(昭和2) 11月3日、旧大阪市南区日東町の教材屋長男として誕生
1933年(昭和8) 旧天王寺第九小学校に入学
1934年(昭和9) 生家倒産し差し押さえうける
1937年(昭和12) 親戚に預けられ丁稚奉公(奉公先を飛び出しガキ大将になる)
1940年(昭和15) 金属工場の見習い工になる 【紀元二千六百年】
1941年(昭和16) 京都の教材屋組合倉庫で働く、青年学校に通学
        ・グライダー訓練養成所に入る、海軍を志願する
1942年(昭和17) 京都の大林組飯場で働く
1943年(昭和18) 3月、舞鶴海兵団に入団(海軍工廠で水雷の火薬詰めする)
1945年(昭和20) 9月、敗戦で復員、帰阪し闇屋になる
        ・10月、出獄戦士歓迎人民大会に参加
        ・12月、松下電器に入社
        ・日本共産党に入党
1946年(昭和21) ・松下「七精神拒否」
        ・松下電器労働組合木工支部青年部長、書記長、本部理事(中
         央委員)など歴任
1950年(昭和25) 共産党専従地区委員 【レッドパージ、朝鮮戦争】
1951年(昭和26) 2月、反米ビラ運んでいて逮捕、松下電器解雇
1952年(昭和27) 共産党内で孤立深める
1954年(昭和29) 共産党の査問とリンチをうけ除名【55年、日共「六全協」】
        ・京都で撮影所の仕事につく
1960年(昭和35) 一匹狼として諸闘争に参加 【安保・三井三池闘争】
1961年(昭和36) 釜ヶ崎に移り港湾労働者になる【8月1日、第一次釜ヶ崎暴動】
1966年(昭和41) 港湾労働者の組合結成、全港湾労組大阪港支部執行委員、副委
        員長など歴任 【港湾労働法施行】
1969年(昭和44) 釜ヶ崎日雇い労働者組合結成の協力
1970年(昭和45) 4月、港湾ゼネスト、賃金格差改善 【天六ガス爆発、万博】
1983年(昭和58) 【大阪城築城四百年祭】
        ・共著『秀吉の侵略と大阪城』に「大阪城と陸海軍」を執筆
1987年(昭和62) 【関西国際空港計画】【御堂筋パレード始まる】
        ・81年、「新空港を作らせへんぞ百人委員会」結成
1995年(平成7) 1月、【阪神大震災】、震災救援活動に参加
2011年(平成23) 2月8日、西成のアパートで死去判明。享年83歳
        ・(正確な死亡日時、病名・死因等は解剖所見の続報を待つ)




<完>





『港で働く人々』



(大阪市発行・「大阪港のあゆみ」より)





お時間頂き、どうもありがとうございました🙇





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