ダブルっち博物館

小6~高3まで両親の近距離別居型生活に巻き込まれたダブルっち君(1998年4月29日生まれ)も、晴れておかげさまで、フリーダム生活を満喫中です!f^_^;)笑

“水俣病患者として生きて” 小笹恵(おざさめぐみ)さん






熊本県葦北郡津名木町/水俣湾

https://uminogohan.muragon.com/entry/3.html



2004年10月15日、チッソ水俣病関西訴訟で原告団が22年かけて勝ちました。


父、母の死に際を見てますので、ひれ伏してはくれなかったけど


頭は下げてくれて嬉しかったです。


遺族の代表としては、関西患者の会会長の下田幸雄さんはじめ、


当初の原告59人のうち22~26人が亡くなってますので、


全員の写真の前で、全員の仏前で、手を合わせて頂きたかったです。



http://www14.plala.or.jp/wappa/action/act11.html



1994年11月7日に父、岩本夏義(原告団団長)が亡くなって4ヶ月目に、初めて原告団に加わりました。



その8ヶ月前に、父と同居を始めて、ほぼ5ヶ月間毎日、

父の入退院を繰り返しながらの、水俣の講義を聞いていました。



http://www1.odn.ne.jp/~aah07310/kansaisoshou2.htm




その頃、私は父が水俣に携わっているのは嫌いでした。


「あそこのお父さんの子や」と言われるのが嫌でした。



父は、


「自分たちは、弱い人間だから、

大勢の人に、助けて貰わないといけないから、

ちっぽけだけど、どこへでも行く。

そうしないと、自分たちみたいなちっぽけな人間は勝てない」


と言って、あちこちへ顔を出していましたから。




https://www.youtube.com/watch?v=nu93VdCWTCQ



小学5年生で、水俣へ来ました。


人も車も沢山いるのを見た事のない所から引っ越して来たら、


チッソの事をやっていたので、なんて怖い町だと思いました。





ちょうど患者さんを小屋に隠していた時代で、


有機水銀はまだ疑われておらず


私は、水俣病患者が一番最初に出た 坪谷や


水俣市坪段(坪谷)

「水俣病」公式確認患者発生の地である水俣市坪段を訪ねてー水俣病多発地域の原風景




湯堂の港で遊んでいました。


「湯堂港」の釣り

https://books-nekoya.jp/Fishing/hato/yudou_kou.html





当時はマンガン病と聞いていました。



まだ終わっていない公害・水俣病|猫の地域経済研究所(ネコノミーラボ)





病状は、小さい時からこれが普通だと思っていたのが


「あら、いき当たるね」と、段々なっていきました。




当時、市大におられた山中伸弥先生が


ノギスの使い方を「知らん」と言う甲南の生徒に


「こうやって使うんだよ」と膝トントン叩いて行って


私は「痛みを感じません」と言ったら


「それは普通じゃないよ」と初めて言われました。



https://neco.cafe/n/n7bc0e0124453



私は確かに、「いつしたんかな?」という怪我が沢山あったり、


疲れたら、肩から下の感覚が無くなり、


力が入らなくなったりすることがありました。





その事を父に告げると


「お前も水俣かもしれんから裁判加われ。兄弟の中で一番ひどいわ」

「抵抗力無くなってきているし、今のうちに診て貰わなあかん」


と言われました。





私は水俣にいる頃から

「二世患者は、お金目当て」

という言われ方が耳にこびり付いていたし、


中学卒業して県外へ出る時、親戚に

「水俣だと言っては駄目。うつると言われる」

と言われていたし、


兄の結婚1年前、岩本家は全員認定されてて、

破談になってしまったので、


長いこと水俣だとは言いませんでした。



https://twitter.com/rkayama/status/1294855230824226816





私は、父が亡くなってから水俣だと言い出しました。


亡くなったことが新聞、TVに出ましたし。


言った後、随分職場での陰口や中傷がありました。


「いくらお金出てるの?いいよね、これから楽」とか、


私がすぐふらついてよく休むというので


「あんたたちは休んでも大丈夫。結構やね」とか、


私も言われましたよ。




つながる/ひろがる/フェミ・ジャーナル -ふぇみん-|インタビュー|バックナンバー2008年



1993年3月 7日、母、岩本愛子は、最期は肝臓がんで亡くなりました(享年69歳)。


凄く苦しみました。母はずっと働けなかった。体が弱かった。


父も弱くなり、私は小学5年から食事の支度をしてました。


弟の母親代わりも、遠足について行ったりしていました。


母はそれが後ろめたかったんです。だから死ぬ時、


「恵、私の体を解剖して、水俣認めてもろて、お金みんなで使うんやで」

と、母は言いました。


私は「ここまで苦しんで、何で解剖までせなあかんの」

と、思いました。




水俣メモリアル

https://twitter.com/odawaranodoka/status/1185522229691342848




父、岩本夏義は、裁判では自分の力が足りなかったと苦にして、


自分を責めて責めまくって泣いていました。




私は「何でお父さんが謝らなあかんの?もういいやん」

と、言いました。でも、


「裁判にそこまでのめり込むというのは

どういうことをしているんやろうな。

病気を抱えているけど、目は生き生きしている。

そこら辺のお爺ちゃんやお婆ちゃんと、全然違うわ」


と、思い始めました。








私らの差別は他の原告さんと違い、


親が働けなくて、貧乏して、差別されました。



鹿児島県出水郡長島町の獅子島にいる時は、


みんな親戚のようでのんびりしてました。



獅子島

https://cb750four-bamboo.muragon.com/entry/46.html





水俣に来てからは、一人、叔母も一緒に住んでまして、


叔母は、這って歩いてました。


叔母は吃語で、いつも涎を流し、手も曲がって歪んでました。


叔母は、水俣を申請してませんでした。


亡くなってから申請しても、棄却されてました。




「花の文(ふみ)を-----寄る辺なき魂の祈り」

https://jyakkutomamesuke.muragon.com/entry/837.html






子どもの時は、貧乏のことで、凄くいじめられました。


臭い匂いがすると言って、給食を配ったら食べてくれなかったり、


みんなで帰るとき、木の棒で手を繋がれたりしました。









チッソという企業は、


あの町にチッソがあったから、水俣市が栄えた事は、事実で


チッソの悪口を言うのはとんでもない事で、神様扱いでした。



チッソ水俣工場



でも、あの会社が無かったら、


私の父も母も、こんなに早く亡くなることはありませんでした。




私は、親孝行できるまでは生きててほしいと思っていましたよ。


他にも何万~何十万の人々をチッソはころしていますね。



だから殺人犯だと思ってますよ。



動いていないと、賠償金も払えないから、今も動いているんですか?




“もうかるためにしたら 人間がこうなった”





今、私は段差がわからない、見えない、まっすぐ歩けない、


ふらつくのでじっと立つことができない、


エレベーターに乗れない等の病状が出ています。





行儀が悪いかもしれないけれども


いつも寄りかかっている姿勢で立っています。


いつも足に力を入れて踏ん張っているので疲れるんです。







学校では朝礼が一番の苦手で


小6くらいからパッタンパッタンとよく倒れていました。


卒業式でも眩暈でフワ~ッとなりました。





http://www14.plala.or.jp/wappa/action/act11.html



今一番の心配は…裁判には勝ったんですけどね、


原告さんの中にもいましたけども


一人暮らしの人を助ける運動がしたいです。




水俣病、救済地域外の人にも 1万人データ分析:朝日新聞デジタル





不知火海の人は、掘り起こせますけども、他府県の人は…。


何%かは国が補助してほしいです




子どもさんの中にも、何らかの症状が出ていて、知らないで、


どうしたらいいのかわからない人たちが、沢山いると思うんです。


その人たちと、連絡を取ったりして、子ども世代のことも


国の責任で、検討してほしいと思います。






そういう掘り起し運動をしたいと、父も申しておりました。


私も、力はないですけれど、


せっかくチッソ水俣病関西訴訟の原告団に加わったんですから、


呼ばれたら、


公害患者は一生苦しみ続けなければいけないから、


それを一人でも多くの方に伝えて行きたいと思います。



水俣エコパークとノーフォークテリア犬

https://stuj.muragon.com/entry/31.html?site_preference=normal








小笹恵さんのプロフィールです。




1953年生まれ。チッソ水俣病関西訴訟原告遺族。両親は水俣の対岸、獅子島に生まれ水俣に移って発病。父、岩本夏義さんは関西訴訟の初代原告団長。22年間の闘いを経て2004年関西訴訟最高裁判決で勝訴した。



熊本県水俣市で育ち、その後、大阪へ移住した。亡くなった父は、最高裁が水俣病被害の拡大責任が国にあることを認めた関西訴訟の初代原告団長。病苦や貧困の中で、父親に反発し水俣病を隠してきた気持ちが、次第に自ら原告となる決意に変わる。



水俣病関西訴訟は、1982年に提訴され、22年後の2004年、国と熊本県の賠償責任を認めるとともに、国の認定基準で水俣病と認められなかった原告を水俣病と認めた高裁判決を維持する最高裁判決を勝ち取った。






<完>



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ご紹介できなかった残り19作品は

タイトルと話し手の方のお名前のみ

掲載させて頂きます。


(「証言の部屋」備え付けファイルより)



アイヌ民族として生きて 平澤隆二さん 平澤真由美さん

差別と向き合う宗教者 訓覇 浩(くるべ こう)さん
女として生きる 中野冬美さん 下之坊修了子さん 利光真理子さん
シングルマザーの子どもたち 野村大史さん 大森暁さん
戸籍に記載がない子どもの母親として 土肥俊子さん
不登校から考えたこと 石井志昴さん
障害児と共に 折田みどりさん 北村恵子さん 向井裕子さん
性と向き合う 塩安九十九さん 西千鶴さん
性的少数者と出会って、「異性愛者」と出会って 石黒周さん 石井香里さん
公害裁判を闘って 森脇君雄さん
過労死から見た現代の労働 土川慶子さん
ハンセン病回復者と地域の人びと 川島保さん 森蔭倉平さん 森本欽也さん
ハンセン病資料館での仕事を通じて 西浦直子さん
薬害エイズの教訓 花井十伍さん
教育と内心の自由  鄭 欺瞞(チョン ギマン)さん 松尾一さん
部落青年のアイデンティティ 川口泰司さん 堀内明菜さん
同和教育に学ぶ 堅田和芳さん
結婚差別の体験から 井上泰子さん
本仕込み猿回し 村崎耕平さん



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私事ですが、要約筆記のブログは、都合によりこれで休止します。


ノーパソがお釈迦カウントダウンを始めたので、最後にこれだけはと思って更新しました( ̄m ̄〃)



それでは、仕切り直して



去る5月21日、某「リバティおおさか」閉館10日前に、小笹恵(おざさめぐみ)さんの2004年インタビュー『水俣病患者として生きて』を視聴させて頂きました。



読んで、皆様の約50年前(影も形もない方も?)にタイムスリップして頂いて、何か一つ、持ち帰って頂けましたら幸いです。





画像は、ムラゴンブログの皆様etcからお借りしました。


貴重なお時間を頂き、お読み頂いた皆様、どうもありがとうございました。


〆は


それでは2021年もどうぞよろしくお願いします。

※来年も、ブログ続けます( ̄皿 ̄〃)




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