ハンセン病資料館の活動から考えたこと 佐川修さん(つづき)
宮崎駿監督は、多磨全生(ぜんしょう)園の“山吹舎”の保存に尽力された際、佐川修さんについて、「塗料を塗って、ガラス戸もつけたら、あんなに立派じゃなかったって、何回も言うんです。10人も男が住んでいたら、たちまち汚くなるんだから、と。亡くなる寸前までずっと言っていましたね。頑固者だった」と紹介されていました…
https://www.asahi.com/articles/ASM1X2HB5M1XULBJ001.html
(前回へのリンクです)
ハンセン病資料館の活動から考えたこと 佐川修さん
草津の栗生(くりゅう)楽泉園(群馬県吾妻郡草津町)には、娯楽として、患者歌舞伎、菊作り、文芸、絵画等、いろんな活動がありました。私は芝居で女形をやっていました。
https://twitter.com/hansensdiseasem/status/1298439257531355136
右手は使えなくなりましたが、左手でまあ、何とか色々とやってきました。
「栗生楽泉園の中では、お前が一番若いから、行け」と言われて、五日会(自治会の前進)にも参加しました。
そしたら、みんなで何かやるのが楽しくなっちゃって、新しい自治会が出来ました。
私は、まずは、“不自由者棟”の看護人を自分で見つけなきゃと思って、集まった30人くらいで世話係をやりました。
https://www.youtube.com/watch?v=uFIv35qkvu0
(“不自由者棟”は、ハンセン病の後遺症の悪化で、手足や視力・聴力に障害が出た方や合併症、高齢化などによって介護が必要となった方が暮らしていて、看護師数が少なく、健康舎の入所者が看護や介護をしながら、職員への切り替え闘争につなげていきました).
当時、私は17~18歳でしたが、19歳と誤魔化して立候補して、1947年の秋まで4期、“自治会”の代表をやりました。
生活委員として“食堂”を作ったらどうだと提案して、自分で測量して、図面も書いて、1955年(24歳)に、全国の療養所で一番早い“食堂”を草津に作りました。
https://www.mhlw.go.jp/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/iryou/hansen/kuriu/institution_005_09.html
1964年(33歳)春に、山梨の身延深敬園(みのぶじんきょうえん、私立病院、山梨県南巨摩郡身延町)へ移ってきてすぐ
全国ハンセン病患者協議会・本部(全患協、東京都東村山市)へ行けと言われ、東京へ移りました。
全患協本部では、約10年間働きました。初めは渉外活動をして、浅井訴訟の裁判に関わり
http://www.libro-koseisha.co.jp/top03/rb1027.html
2001年の原告勝訴判決後、郷里に迎えられ卒業証書を授与された浅井あいさん
1968年(37歳)頃からは、機関誌の“全患協ニュース”の編集を6年半やりました。
休んで何にもしなかったことは殆どありませんでした。
私は、ハンセン病療養所へは、働きに来た感じでした。
多磨全生園内にある自治会館
http://torikai.starfree.jp/tokai/2015-7hansen.html
全患協を辞めた後は、建設会社で働き(労務外出)、時給1,500円の福祉年金を得ていました。
1973年(42歳)に、建設会社で夜8時頃まで働いた翌日、多磨全生(ぜんしょう)園(東京都東村山市)の寮の炊事場の屋根の修理を、頼まれてやりました。
山吹舎 https://murauchi.muragon.com/entry/542.html
そして、屋根から落ちて2か月間、意識不明の重体で寝ていました。
でも、右耳と右目が使えなくなっただけで、私は死に損ないました。
(つづきます)
お時間頂き、どうもありがとうございました🙇
今日も 皆様にとって、私にとって、素敵な一日となりますように🎵