ダブルっち博物館

小6~高3まで両親の近距離別居型生活に巻き込まれたダブルっち君(1998年4月29日生まれ)も、晴れておかげさまで、フリーダム生活を満喫中です!f^_^;)笑

門付け芸「お志げの春駒」

いまだ、習作中ですが…。








~☆・*。.:*・゚☆・*。.:*・゚☆~


一の段


シャンシャカ シャカシャカ テンツクテン
めでためでたや春駒なんぞ 夢に見てさへよいとや申す


年に一度の春正月に 国はあきのくに広島で
カカ様が唄を娘が踊りを 馬の頭なんぞを持って 
年始の祝言をことほいでまわる 門付芸(かどづけげい)そは春駒なり
母娘は衣装をいかなるふうに 纏っておったかと言うならば
着物尻からげに赤いおこし ちょいと見せて 
紫色の布で頬かぶり 三尺たすきのあまりを垂らす 
手はどうかと見てやれば 紫の手甲をつけておって
足はどうよと見てやれば 赤い鼻緒のワラ草履ばき
持ち物は何と見てやれば 春駒と呼ぶ馬の頭
春駒の手にする辺りにゃ 一文銭と鈴を通した金輪
踊るとシャンシャン音鳴りて その春駒にも三~四尺の紫の布
被差別の身は一生 消し去れぬことなれば 
せめて正月露の間程でも 非日常の神に変身させてくだしゃんせ
も早や支度もでき上がり 時は一九三二年頃の
お志げが数えで七つから十 正月二日の八ツ半(午前三時)に
起された外は 冬の凍てつく寒さと暗さ
星の明かりと母の手が頼り お隣松永町まで十五(㎞)
更に福山市まで二十五(㎞) 町のはずれの神社で朝に 
冷えた握り飯一つの朝食 さてと門付けして歩くが
近所の子ども衆寄ってくれば 「春駒じゃ春駒が来た」と冷やかす
お志げは恥ずかしさと寒さで 思うように手足動かず 
思い切って声出し踊ると 十軒廻れば五・六軒
断られ塩をまかれ その上ここ二、三年  
満州事変の始まりで 華美なるものは取締られ
警官を見れば物陰へ 隠れ気兼ねし門付けを
終わってカカ様と暖かいうどん お志げは一生忘られず


さても一座の上様へ まだ行く末は程長い 
下手の長読み飽きがくる 一息入れて次の段



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二の段


シャンシャカ シャカシャカ テンツクテン
めでためでたや春駒なんぞ 夢に見てさへよいとや申す


仕事しないトト様なんぞ おらんでええと申したお志げ
それだけ家や弟たちのこと 思いつめてた十六(数え)の夏
石鹸・タオル・下着二枚の 風呂敷包み一つ手に下げて 
八月十五日の夜の玄界灘 渡り朝鮮へ出稼ぎに行く
家が貧しく女の人が 家族と離され売られゆく時代
親の反対無論のことで トト様は目に涙溢れさす
働く酒場に着いた翌日 ひと月の給与五円というに 
前借り二百円を家へ お志げ何年異国の地に働く
心配かけた母にはウサギの 毛のついたサンダル下駄を
お志げめでたや自分のことなんぞ 全くと言う程省みず
つらい暮らしに打ちひしがれてなお 「誇りうる父の血は涸れず」
かように命を捨て働くは 被差別の民に及ぶものなし
脈々とそれはお志げの中に 生き続けていたと言えよう
母の没後(享年七十五)に下駄箱の隅 サンダル下駄が揃えて在り 
お志げ腹いっぱいメシが食え 小ざっぱりした格好で歩く程に
何年も朝鮮で働いたある日 職場に広島弁の人現れる
懐かしくつい「尾道から来た」と 喋ったとたん「あそこのモンじゃろう」と
まさかの尾道出身の警察官 お志げは職場におられず帰国の途につく


さても一座の上様へ まだ行く末は程長い 
読めば理解も分れども まずはこれにて段の切り



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三の段


シャンシャカ シャカシャカ テンツクテン
めでためでたや春駒なんぞ 夢に見てさへよいとや申す


お志げが古里へ帰ってくると 幼馴染のテルちゃんはもう
この世の人ではないと知った 紡績工場の職場で差別を
家へ逃げ帰ったきり1歩も 家から出ずに数え19で
自ら若い命を絶った 母から同村の娘おそめが
結婚で村外のものから受けた 差別で何時間も汽車道の草を
みなむしりとって轢かれた 17やそこらでと聞かされた
お志げは結婚はしたが夫にも  抱えた痛苦は語らず薬を 
睡眠薬を飲み続けすでに 中毒気味になって自殺も
思いつめていた10年前(40過ぎ)、初めて識字学校に参加した
識字に通い文字とそこの人々の 生い立ちに学ぶ取り組みの中で
自分のトト様に重ね合わせ 何とも言えぬ衝撃に震えた
胃のただれるまでお酒をのんで なにも言わずに逝ったトト様
なぜそうなったのかの問いの答えが 人々の生い立ちを聞く中にあった
そのトト様の悔しさやりきれなさを ついに見てとれたお志げは申す 
「トト様は怠け者と違う」と 「トト様は呑んべえと違う」と 
かつて「働かぬトト様なんか おらんでもええ」と言ったお志げの 
父への憎しみは差別への憎しみ 体制への憎しみと変わった


さても一座の上様へ まだ行く末は程長い 
下手の長読み飽きがくる 一息入れて次の段



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四の段


シャンシャカ シャカシャカ テンツクテン
めでためでたや春駒なんぞ 夢に見てさへよいとや申す


鍋釜修繕雨トヒ修理 土方鉄くず拾いを仕事に
しかしこれとて毎日はなく トト様分ってお酒で紛らす
それをはたからなんぞ言われりゃ 荒れてしまうも仕方ない
春駒ら祝い芸グループは 鬼は外福は内~恵比寿大黒~
大体二月で仕事が終わり 春三月から秋十月まで 
川漁をしてなまず、うなぎに ぎぎょうや、いだ、はや
県下のあちらこちらの川筋 さかのぼり移動して家に帰らず
大きな子どもらは半年以上 学校休んで行動を共にする
父が魚をひらき竹串にさす 母子が串ざしの魚売り歩く
一串5、6銭で売り切るまで  家族がまた顔を合わせる秋祭り
無事を喜び合い秋冬は 家で生活し男は土方へ 
女は土木(ヨイトマケ)やしゅろ箒づくり 箒は夜明け前に尾道を出 
徒歩で午前8時頃三原に そこで箒を売り切れるまで
何ゆえお志げのトト様は 川漁をしなかったのか
話してくれずに逝ってしまい 「分からない」が問いへの答え  
できればほかの仕事にと 当時誰もが思ってはいた
お志げからの色々な問いへの 答えを自分なりに出すことが
以後この口上の中心となる 漁は漁るのも売るのも一日がかり
例えば水田耕作の農家さんは 水張り確認と朝夕草取りだけ
なぜにワシらよりあんなに楽なのか なぜにワシらはこんなに貧しいのか
明治四年八月二十八日の 「今より身分職業とも平民同様」の
意味は例えば人には職業を 自由に選びたい意思があり
それは基本的条件の定義なれば 奪われることは差別と言うべき
父らは貧しいことのすべてが 差別とまでは言いはしない
自由に職業を選ぶことが 尊重されないから差別だと
たとえ父らが脱川漁に 成功したとてふるさと隠す
などして身を守る必要があり 時には父らも皆と一緒に
部落差別話をすることもあり そうしなければ父らがムラのもんだと
疑われて差別された 顔で笑って心で啼いて
ついこの間までよくあった話 いや今でもあるのが現状なり
他の親たちも自ら進んで 川漁を選んだのではなかった
排除されて選んだというのが 問いの答の一つなり


さても一座の上様へ まだ行く末は程長い 
読めば理解も分れども まずはこれにて段の切り




~☆・*。.:*・゚☆・*。.:*・゚☆~


五の段


シャンシャカ シャカシャカ テンツクテン
めでためでたや春駒なんぞ 夢に見てさへよいとや申す
就職、結婚、めでたい節目に ひっそり逝ったテル子とおそめ
対抗のすべを持たぬ乙女
あの娘は人間界の汚れ あの娘は社会を汚す災いの元
だからうちの家族に社会に 迎えられぬ加えられぬ
そう意味をなす身分名に 心押し潰され深い絶望を
味わったテル子とおそめ つらい話は尽きぬけれど
歴史を見ればやがて変化の兆しが 訪れるのも必然ならば
できれば続きに耳傾けて お志げの対抗のありさま見届けを
「差別してはいけません」と言うより さべつまんじゅう二つに割って
隠されているケガレあんこを 見ることこそが大事なり
差別のあんこの役割果たす ケガレを克服せんがために
ケガレの正体見極めてほし 「ケガレは接触するとウツル」と
摺り込まれた子ども衆はどうなる あっちへ行けと態度で遠ざけ 
排除が始まり「ウツル」という 考えがそれを「正当化」する
ケガレなんてないしウツラヌ それを皆が納得せねばならぬ
「ウツル」の考え克服なしに 「差別してはいけない」は 通用せず
「差別してはいけない」と唱えるだけは 根本的解決につながらず
ケガレの正体とは?の答えは 実際にこの世には存在せぬもの
排除を「正当化」したい人々が 実在すると決めつけているだけ
テル子とおそめのとうとい命を 奪ったその考え方を「不当」と
学び克服して「ケガレなんて そもそもない」という態度を以後
取り続けていれば差別は消える


さても一座の上様へ まだ行く末は程長い 
下手の長読み飽きがくる 一息入れて次の段




~☆・*。.:*・゚☆・*。.:*・゚☆~


六の段


シャンシャカ シャカシャカ テンツクテン
めでためでたや春駒なんぞ 夢に見てさへよいとや申す


平成はじめの小学校の 国はいなばのくに鳥取で
人権学習なる教材に お志げの「春駒」取り上げられて
出てきた子ども衆の思うがままの 意見に対しある視察の先生が
お志げに代わって申し上げた 「昔の正月はどこの家庭も
餅はうちでついたけれども お志げのうちに餅が無かった
理由はもち米が買えぬほど 貧乏だったからとは限らず
一概に餅が無いと言っても 貧乏で買えなかったからと
餅をつかなかったからの 二通りありより可能性が
高いのは後者だと思えます なにしろ餅は“春駒”で
毎年貰って帰るのだから」 視察の先生はまた申し上げた
「カカ様は餅を貰うため 凍る山道を往復した訳でなく
なぜ20㎞以上離れた地から 正月“春駒”はやってきたのか?
それは古くからそのように 縄張りが決まっていてそのまま
引き継がれただけ昨年に 訪ねた家を今年は飛ばせば
その家の年越しセレモニーが 終わらない正月やってこない
訪ねることは約束であり 破れば仲間の信用に関わる
だから凍る山道踏みしめ どんなに寒くどんなに辛くとも 
“春駒”は20㎞以上の道のりを ただ黙々と歩き続けた 
そこにあるのは崇高な使命感 そこに経済的動機はあらず!」   
良質な授業であったこと間違い無い 日本の教職者もまだ棄てたもので無し
この先生はお志げが本当は 何に一番苦しみ何を強く願っていたか
分っておられたと考えられる


さても一座の上様へ まだ行く末は程長い 
読めば理解も分れども まずはこれにて段の切り





~☆・*。.:*・゚☆・*。.:*・゚☆~


七の段


シャンシャカ シャカシャカ テンツクテン
めでためでたや春駒なんぞ 夢に見てさへよいとや申す


日本社会ではしばしば 芸能神事が差別と結びついてきた
就職や結婚で排除される人が 正月は神様の役割を引き受けた
お志げの詩に書かれていたのは 一般の人に清める力ないために
お志げらにその役割を 頼らざるを得ないという事実
必要な人をなぜ差別したか それはいまだ多くの.研究者が
説明しきれていない最後の難問 とりあえずそれを受け入れてみて
何が正しく何が間違っているか 判断できる力をつけることが
根本的に差別をなくす お志げは心で「申し上げます
くるしみはいつかなくせないことはない どのような努力を行うか
いかに継続するかということが くるしみのなくなる時期を早めもすれ 
遅らせもする倦まずたゆまず 努力することの大切を
歴史は教えているので 歴史と人々への信頼を」


まずはこれにて段の末


~☆・*。.:*・゚☆・*。.:*・゚☆~





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