ダブルっち博物館

小6~高3まで両親の近距離別居型生活に巻き込まれたダブルっち君(1998年4月29日生まれ)も、晴れておかげさまで、フリーダム生活を満喫中です!f^_^;)笑

ハンセン病資料館の活動から考えたこと 佐川修さん(つづき)



(左から、佐川修さん、宮崎駿監督、平沢保治さん)

https://blog.canpan.info/nfkouhou/archive/641







(前回へのリンクです)





ハンセン病資料館の活動から考えたこと

 

佐川修さん







私は、ハンセン病資料館(東京都東村山市)造りは、1990年(59歳)から始めました。


https://www.youtube.com/watch?v=mr44Ys_t9No

1993(平成5)年に建設されたハンセン病資料館は、2007(平成19)年に国立に移管され、

2016年現在までに大体35万人余りの方が入館しています




大竹章さんと僕の 生き残った2人で、全国18カ所の療養所を回り歩いて、園券(園内通用券)、


https://www.nippon.com/ja/features/c02703/?pnum=2



食器、義足、靴、農具等1,300点位の展示物を集めてきて、

自分達で、説明文も全部考えました。



鎌倉市、藤沢市、奈良市の療養所は協力的で、“全患協運動史”の資料等を送ってくれました。

https://twitter.com/hansensdiseasem/status/1249204563925663744?lang=es




駅前で募金活動もやり、1億3千万円のうち8千万円を、多摩で、熊本の志村康さんや、大谷藤郎先生が集めました。


https://blog.canpan.info/koho/archive/653




常設展示とともに、“語り部活動”も 平沢保治さんと2人で行いました。


https://murauchi.muragon.com/entry/543.html




私はそれから20年近く(2005年当時)、ハンセン病資料館活動と“全患協”の役員の活動を 掛け持ちでやり、みんな色んな事情で辞めちゃって辞められないということもあり、休む間はありませんでした。



でも、2年前(71歳)に、学芸員の方が入ってくれて、今は任せていい感じになっています。





ハンセン病の書物で、写真ではみんな見ていますが、実際に品物があると、やはり違います。



瓶、水屋、箱膳、食缶…これらは書物では説明しきれないです。



やっぱり、物は大事だと思います。



引っ越しで、燃やしたり、捨てたりされることが多い物ですが、何とか、ハンセン病資料館なり、ハンセン病図書館なりに、


https://murauchi.muragon.com/entry/542.html


出して欲しいと思います。





休みなくずっと、運動してきたことがなければ、裁判もまだ起きていないと、私は思うんですね。



“皆が力を合わせて 運動したおかげ”ということを、強調しておきたいと思います。



そして、これも、誰が言っても間違いのないことですが、ハンセン病資料館ができなければ、まだ「らい予防法」は廃止されていなかったと、私は思います。



「入所者の一部でも 反対している間は、絶対に 廃止されません」と、大谷藤郎先生もおっしゃっていました。





1964年(33歳)には、“看護切り換え闘争(六・五闘争)”と言って、不自由者看護(軽症の入所者が 重症者の看護や生活介助を行う“患者付き添い制度)”が過重なので 職員に移行してほしいと要求して、ハンスト、座り込みを行いました。



https://www.youtube.com/watch?v=Ll48MYr9_co



これは、1965~71年まで、毎年予算が決まる6~7月頃に行いました。


盲人の人たちも 皆、ロビーに座り込んでやりました。


それでも、理解はなかなか得られませんでした。




ところが、大谷藤郎先生が 厚生省医務局国立療養所課長になられた途端に、先生は「同じ人間じゃないか。一緒に珈琲店に行こう」と言われました。


https://www.youtube.com/watch?v=cqUuoKukNkI




前の課長の方たちは、ハンセン病は怖い、うつると知らされて思い込み、私たちを課長室へ入れてくれなかったり、自分には珈琲を煎れさせ、私たちにはお茶であしらったりして、怖れていました。


私は、一歩進んだなと感じました。





大谷藤郎先生は、ご存知のように、京都大学の学生だった頃、


小笠原登先生に師事しておられました。


https://twitter.com/i/web/status/880785468362600448



その小笠原登先生は、圓周寺(愛知県あま市の真宗大谷派の寺院)の住職で




圓周寺は 江戸時代から代々、梅毒、癩病、瘰癧等の病気をずっと診ているお寺でした。



https://jodo-shinshu.info/2020/02/06/20592/



大谷先生は、そこで手伝っておられたのでした。


そのため、ハンセン病は 簡単に移る病気ではないと、その頃からご承知でした。



大谷藤郎先生は、その後、京都の衛生部から厚生省へ移り、


厚生省では 国立病院館長、医務局長、公衆衛生局長、審議官までやって退官し、


退官後に、藤楓協会(ハンセン病に関する知識の普及のために設立された財団法人)理事長、ハンセン病資料館館長等を 歴任されました。




(つづきます)









お時間頂き、どうもありがとうございました🙇


今日も 皆様にとって、私にとって、素敵な一日となりますように🎵


柚子の木 https://kk-tt818.muragon.com/entry/136.html







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