“ハンセン病資料館の活動から考えたこと” 佐川修さん
宮崎駿監督は、映画「もののけ姫」に、古来の製鉄所、「タタラ場」で働く
体中に包帯を巻いた人々とその病への差別を描く際、
佐川修さんとの親交が深まりました。
今回は要約筆記の分量がちょっと多かったので、少しずつブログに載せていきたいと思います。
画像はムラゴンの皆様等からお借り致しました。ありがとうございました。
ハンセン病資料館の活動から考えたこと
佐川修さん
14歳の年の1945年3月10日、東京大空襲で、妹(6歳)と生き別れ、
家族はバラバラになり、私自身も大火傷を負いました。
それで、千葉の大学病院へ行ったところ、
「これはどうもレプラ(ハンセン病)だ。全生園(東京都東村山市)へ行きなさい」
と言われました。
それで、多摩全生園へ行ったところ、
「ここは定員オーバーしてるから草津の療養所(栗生楽泉園)へ行きなさい」
と言われました。
草津へ行く時、母から
「もうこの病気になったら、生きていてもいいことないから、死んだ方がいいよ」
と言われて、5円と、おにぎり2個を持たされました。
私は、「空襲で死んだ人をいっぱい見たから、生きてみよう」と思って家を出ました。
行き方が分からないため、高崎駅で降りてしまい
https://haniwa.muragon.com/entry/619.html
お巡りさんに訊いて、渋川駅に行ったところ
もうバスは出なくて、一晩震えながら、駅で泊りました。
次の日10時頃、バスで長野原へ行くと、雪が膝まであり
長野原から草津まで(14㎞)、バスが出ませんでした。
https://mmm777kiha40.muragon.com/entry/26.html
転びながら雪の中を歩き、傷は痛み、前の日から2日間、何にも食べていなかったため
私は「多摩川に飛び込んだ方が楽かな」と思いましたが
https://xfcs16.muragon.com/entry/2968.html
「もうちょっと歩いてみよう」と思って歩いて
2日目の夜7時半頃、草津の栗生楽泉園に着きました。
草津の療養所では、「空襲にあったのか。可哀想に」と言われて、
大人4人部屋に14歳の私を入れてくれました。
死んだ人の湯飲みとか茶碗とかを貰い、「すぐに作業しなさい」と言われて、
そこでの生活が始まりました。
とにかく寒くて、粉雪が舞う夜も、掛け布団一枚で過ごして、手拭いが凍りました。
(つづきます)
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佐川修さん・プロフィール
1931年、朝鮮半島の全羅南道に生まれ、幼少時に東京都江東区亀戸へ。
14歳で東京大空襲で大火傷を負い病院へ行った際にハンセン病と診断され、1945年3月に栗生楽泉園(群馬県草津町)に入所されました。
身延深敬園(山梨県南巨摩郡見延町)を経て、多磨全生園(東京都東村山市)に転園。
ハンセン病資料館の創設者の一人として大きな功績を残されました。
資料館設立においては全国の療養所をまわり約1300点もの資料収集や展示制作を行い、開館後も運営の中心を担われました。
ハンセン病資料館を「啓発の基地」として重視し、「ハンセン病を隠すな」「ハンセン病に無知であってはならない」と訴えながら、2018年1月24日に死去されました。
多磨全生園の記録で享年86歳でした。
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前回の記事をお読み頂いた皆様、他の記事もお読み頂いた皆様、
17歳の頃のお話もお聴かせ頂いた皆様、どうもありがとうございました。
私は在日コリアンの友達ができたのは、大学生や社会人になってからでした。
私は初めて冤罪のTV番組を観た時は、深夜や明け方ではもったいないな、ぜひゴールデンでやってほしいなと思いました。
去る5月23日、某「リバティおおさか」閉館8日前に、「証言の部屋」ブースにて
国立ハンセン病療養所「 多磨全生園」入所者自治会前会長の
佐川修さんの2004年インタビューをお聴きしました。
今回の記事は、お読み頂いて、皆様の14歳の頃にタイムスリップして頂いて
何か一つ、持ち帰って頂けたら幸いです👧👦
お時間頂きどうもありがとうございました🙇♀️
ギガは、少しでも皆様の記事作成の為に…🌗