ダブルっち博物館

小6~高3まで両親の近距離別居型生活に巻き込まれたダブルっち君(1998年4月29日生まれ)も、晴れておかげさまで、フリーダム生活を満喫中です!f^_^;)笑

在日コリアン差別が僕の父と母から奪ったもの。




(画像は「千と千尋の神隠し」のワンシーンより)





去る5月24日、某「リバティおおさか」閉館7日前に、「証言の部屋」ブースにて
在日韓国人二世、NPO法人精神障害者支援の会“ヒット”の理事長の

呉光現(オ・クァンヒョン、ハングル読み)さんのお話をお聴きしました。

内容を、要約筆記にてお伝えします。






2005年リバティおおさか・インタビューより

『猪飼野(いかいの)の生活史』

呉光現(オ・クァンヒョン)さん

(画像は、民衆文化の発信基地コラボ玉造☆猪飼野写真様よりお借り致しました)






1957年生まれの僕は、60年代から70年代初めに小中学校時代を送りました。育った路地裏の長屋は、20軒位のうち日本人の家は1軒だけ。本名を使っている人はいませんでした。




小5のクラス替えの時、本名の子が1人入ってきて「なんや?!」という新鮮な驚きがありました。ぶっちゃけ、全く意識がありませんでした。

父は在日1世で学校教育を受けたのは小3まで。母は全く学校へ行っていない無学の人で、そんな中、両親は、私たちは日本に住まして貰っているという価値観や、私たちは日本人より下にあるという意識を持っていました。





僕の小中学校時代の学校生活は、出席簿はまず、日本人男子の五十音順から始まり、その後に在日男子、そして日本人女子、最後が在日女子でした。

家での会話は朝鮮語で、キムチは、今でこそみんな食べてますけど、僕は当時も食べてました。学校の林間学習での食事は、僕はお吸い物の蓋のあけ方が(押すと開くと)わからなかったり「おーい、スッカラ(スプーン)ないぞー」と言ったりしました。スッカラは日本語だと思っていました。






女の人は、日常生活の中でもチマ・チョゴリ(民族衣装)を着ました。日常生活の中に“ハレ”(非日常)と“ケ”(日常生活)の両方の側面がありました。“ハレ”も当たりまえのように家の中でやっていたので、子どもはその日はワクワクしていました。





民族学級は、嫌いでした(笑)。7時間目にありましたから。でも、みんなが帰った後でソフトボールが出来るのは楽しみでした。喧嘩した時には、朝鮮語が飛び交いました。どこでもそうですけど、喧嘩言葉だから感情的で汚いでした。

僕は、朝鮮語はあんまり理解出来なかったけれども、しょっちゅう喧嘩をやってましたから、そういう表現豊かというか派手なのばかり、耳に入ってきました。あんまり肯定的な育ち方をしていませんね。みんなそうやったんではないかなぁと思います。




小学校高学年の時、担任が教室で、「日本で朝鮮人は差別されているが、これは朝鮮人は日本人になれるのにならなかったから悪いのだ」と言いました。

これは、もちろん事実ではないのですが、当時は先生の“言葉”が真実になりました。

僕は、家に帰って母にこのことを言いました。すると、母は寂しげに「朝鮮人は、朝鮮人や」と言いました。これは、一生忘れません。





小学校時代は、“日本名” が当たり前でしたが、中学時代は、形式的に “本名、日本語読み” を使用させられました。高校の受験直前に、担任から「“本名” で高校行ったら、色々とややこしいで。“日本名” がいい」と言われました。僕は「救われた」と肯定的に捕えました。それで “日本名” で進学したら、高校の出席簿は、五十音順で上の方に載りました。

僕が通っていた小中学校は、日本人:在日児童・生徒の割合は、小学校が6対4、中学校は半々ぐらいでした。とはいえ、授業中、先生がどういうことを言っても、僕らは聞きっぱなしで反論する知識もなかったので、表面化しませんでした。





でも、圧倒的マイノリティではなかったので、「遊んだらアカン。遊べへん」は成立しませんでした。学校から出ると、日本人、朝鮮人関係なく路地裏で遊び、喧嘩した時も、「なんや、朝鮮!!」と、日本人に限らず、朝鮮人の子も言っていました。

そんな中では、まともなアイデンティティは育ちませんやん。僕は、朝鮮人としての誇りがないし、よう返さんかった。向こうも別に根拠は持ってませんでした。ただ、自明の理としてありました。





父は、集団就職で九州から大阪、京橋へやって来た朝鮮人で、そこで従業人100人は下らないガラス工場の社長となりました。でも、3年で倒産して、僕は “お坊ちゃん” から “廃品回収や寄せ屋をして凌ぐ家の子”になりました。正直言うと、惨めでした。

その後、父と母は、ヘップサンダルの町工場で、強烈なシンナーの匂いのする中で働いたり、家内労働でハンドバッグの留め金を作ったりしていました。うちは、キムチ屋さんはしませんでした。




同じ路地裏に住む人でも、日本人は、“住居は猪飼野(いかいの)で、職場は他市” という人が多かったです。朝鮮人は、家で働いている人が多くいました。

僕自身は、朝鮮人であることを、小中学校時代は、生きていく上で “隠す“ ことにして、高校時代は、朝文研の日本人のみんなの望むように “権利意識として隠さない” を選択して、転機は、大学に入ってから訪れました。

“隠す・隠さない” は尺度ではないですけれども、僕の場合、それで見ると、流れがはっきりました。




住吉高校時代は、全校生徒450人のうち在日朝鮮人は20人と全然少なく、朝文研にいたので、積極的には “隠さなかった” けれども、好きになった日本人の子には “隠していた” ので、告白出来なくて、結局は “差別” ではないけれども、ふられました。





僕は、大学時代から、生野地域活動協議会と関わることになりました。生野区は、大阪市でトップで障害者自立への取り組みを始めた地域です。僕は、自分の生まれ育った生野区への拘りが元で、「在日」以外のこと、障害者の方たちとも、意識的に付き合うようになりました。

ある時、知的障害者の作業所のキャンプで、ボランティアの女の子の「キャー」という悲鳴を聞きました。そのことで、僕らは遅くまで話し合いました。“作業所の方を人間として認めていたら、その方が昼間、女の子に「オッパイ触らせて」と言って喜んでいたら、怒らなあかんかったんとちゃうか?あかんことはあかんことと学ばなあかんのや!”と、話し合いの中で、僕は大きく学びました。




NPO法人精神障害者支援の会 “HIT” 立ち上げのきっかけは 、大学時代の「在日」の先輩が、精神科の診療所を開院していて、「今から大阪城で患者さんと焼肉するんやけど、ちょっと来られへん?」と呼ばれたことでした。普通そんなんしませんやん。「何やそれ?」と思いながら手伝いに行きました。






僕は、精神障害者問題は何十年も遅れていると、それなりのことは知っていました。「精神障害者は偏見がキツく、隔離されている為に、病状の改善や社会復帰が難しい。なのに取り組みが一番遅れている。色んな人と一緒にやろうか」と思い立ちました。

「4時で終わる」「拘束時間が短い」「ありがとうと言って貰えて、心地いい」等の理由で、病院のソーシャルワーカーさんや、出産退職者(圧倒的に多かったです)が関わってくれました。





僕はこれまで、“当事者” としての「在日」であったのが、初めて、“支援者” としての「在日」になりました。僕は、母の“言葉” や朝文研での経験から “当事者性” が “僕ら抜きで進められていく” になったらあかんと思っていたから、精神障害者問題も “当事者と一緒にやっていく” を大事にしようと思って、関り始めました。






その過程で、精神障害者地域生活支援センターを立ち上げる事になり、地域住民の方から大きな反対(施設コンフリクト)にあいました。でも、逃げたら精神障害者、自分に対する裏切りになるからあかんと思って、僕は一歩も引きませんでした。






当事者やボランティアの方々も、300本の設置反対の幟が立つ中、食事会等に来てくれました。精神障害者は、施策の遅れと共に、社会の偏見がまだまだ強い中におかれており、地域社会に、このような幟が揚がっていることは、決してよいことではありませんでした。

それで、僕たちは、地元の学校に障害者理解のためのプログラムを提示しました。そして、学校側が積極的に対応してくれ、児童、保護者、教師が一緒に学ぶ場となっていきました。

住民の反対運動は、約6ヶ月で、終結を見ました。






僕は、一発ホームランじゃなくて、コツコツヒット(“HIT”)で、H(東成)と I(生野)と T(天王寺)でやったから、いけたのだと思いました。


「在日」の人権から出発した僕が、直接関係のない活動に従事するとは思ってもみませんでした。でも、根底には「在日」としての苦悩、怒り、喜びがあったというか、一つのことに拘わってきた生き方が、多くのことに共感できる自分に育ててくれたと思います。そういう意味で、僕は「在日」として生まれて良かったと思います。







呉 光現 さん・プロフィール
(オ・クァンヒョン)


1957年生まれ
1983年 大阪市立大学文学部史学地理学科東洋史コース卒業

『チョ・ジヒョン写真集 猪飼野』(新幹社)『ニッポン国猪飼野物語』(批評社)等に寄稿


⦅主な役職⦆

生野地域活動協議会委員

NPO法人精神障害者支援の会ヒット理事・事務局長、後に同法人理事長

在日本済州43事件犠牲者遺族会事務局長、後に同会長

社会福祉法人愛信福祉会理事

社会福祉法人イエス団評議員

生野地域福祉アクションプラン策定委員及び在日韓国・朝鮮人外国籍部会部会長

生野地域福祉アクションプラン推進委員会委員及び在日韓国・朝鮮人外国籍部会推進チームチーム長

生野区NPO連絡会代表

韓国・民主平和統一諮問会議諮問委員






<完>







(編集後記)


前回の記事もお読み頂いた皆様、他の記事もお読み頂いた皆様、
7つの頃のお話もお聴かせ頂いた皆様、どうもありがとうございました。


私の7つの頃は、父が見栄を張った結果、ちょっといいランドセルを背負っていたので、

以後もちょっと、居心地悪い6年間を送りました😅


今回の記事は、お読み頂いて、皆様の17歳の頃にタイムスリップして頂いて

何か一つ、持ち帰って頂けたら幸いです👧👦


お時間頂きどうもありがとうございました🙇‍♀️





ギガは、少しでも皆様の記事作成の為に…🌗




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