ダブルっち博物館

小6~高3まで両親の近距離別居型生活に巻き込まれたダブルっち君(1998年4月29日生まれ)も、晴れておかげさまで、フリーダム生活を満喫中です!f^_^;)笑

1945年3月13日の大阪大空襲で被災した13歳の女学生



『皮革の町、西濱と空襲』伊賀孝子さん



※15年前(2005年)のインタビューは異例の、

“大阪大空襲”でほぼ全焼した“芦原橋”界隈を歩きながらの立ち話、

という形式で行われました。

今年の10月に撮ってきた写真で、代用させて頂きました。








JR大阪環状線 芦原橋駅(内回り方面)



大阪大空襲に遭う前は 

明治から戦前まで“西濱”と呼ばれた地で暮らしていました。


新なにわ筋



かつては“渡辺村”と呼ばれた所で 両親は靴職人でした。



高架下の“シューカレッジおおさか”さん。

生徒様がお忙しい中、色々お話し聞かせて下さいました。大阪靴メーカー協同組合が主催する、靴職人を育成する職業訓練学校で、2018年4月に開講。未経験者対象の「靴職人養成講座」は受講料無料だそうです。





空襲で 芦原橋駅界隈は みな焼けて残りませんでした。


市営バスの停留所の太鼓風の屋根



何もなくなりましたから 見るのも嫌で、50~60年間、歩いていませんでした。



空襲前は 家は貧乏なのに 私は幼稚園の頃から 友達の家の女中さんに 一緒に色々

教えて貰ったり 映画に連れて行って貰ったりして 贅沢させて貰っていました。



太鼓屋又兵衛からくり時計



“太鼓屋又兵衛からくり時計”のある浪速玉姫公園前の道では 植木市が 向こうの蔵の方まで ずーっと 開かれていました。




凄い手振れ動画ですが 芦原橋太鼓集団「怒」の楽曲『祭』の演奏の方をぜひご鑑賞ください😅





死没者名簿の作成(1983年~)は、今思えば、もっと早く書き留めるべきでした。



“あしはらばし”と刻まれた芦原橋の親柱(欄干)は


   

浪速西公園に運ばれた芦原橋の親柱



当時、芦原病院(1957~2006年)で働いていた方が見つけて


浪速神社の鳥居



(リバティおおさか北の筋、旧渡辺道にある)浪速神社の境内前の浪速西公園に建つ


浪速西公園




大阪大空襲犠牲者の供養塔(1977年建立)、無縁仏供養の五輪塔(1985年建立)と
一緒に拝んで貰ったらいいんじゃないか、ということでここへ運ばれてきました。




(左から、大阪大空襲犠牲者の供養塔、芦原橋の親柱、大阪大空襲犠牲者の碑、無縁仏供養の五輪塔)





何か心境の変化がありました。


新なにわ筋(栄陸橋北)に通じる渡辺道

(十三間川史跡と浪速神社の間の広い東西の道)



この碑や供養塔が出来て、40年ぐらいかかって、初めて

素直に戦争体験を振り返る事が出来るようになりました。






和太鼓の前に建つ“リバティおおさか”(栄小学校 建物跡)


※リバティおおさか前の南筋(西栄緑道)は、太鼓をたたく銅像が所々にあって
新なにわ筋(栄東歩道橋南)の交差点(浪速第五住宅前)に通じています。




一九四五(昭和二〇)年三月十三日の大阪大空襲で


深夜、防空壕で眠っていた私(大阪市立境川女子商業学校一年生、13歳)は


外に出た瞬間に 油脂焼夷弾の直撃を受けて 


防火用水に飛び込み 火を消しました。




弟の三郎(国民学校一年生、7歳)は  焼夷弾で全身火傷を負い 


被っていた防空頭巾にも 火がついて

 

防空頭巾の紐を ほどこうとしながら


同様に 防火用水に飛び込みました。





私は、父、信一(55歳)と共に ただもう上を向いてボーっとして 


臨時救護所となった母校の栄(さかえ)小学校(※現リバティおおさか)に避難しました。




サムルノリ(韓国)の後ろに映り込む“リバティおおさか”(栄小学校 建物跡)




玄関に入ると 物凄く人が一杯で 皆 怪我をしていました。


父が“治療室どこですか?”と避難者の方に聞くと “私らも入れません”と言われ 


それでも父は人をかき分けて 応急処置をしている教室に入りました。




父が弟を俯せに寝かせると 私はギャーッと叫びました。


弟は 背中の皮が全部ズルっと向ける状態で


顔と左手と足は 全部火傷していて


衣服は 腰の周りのブリーフの形以外 全部 焦げて茶色でした。


若いDr.が“見たらあかん”と言いました。


その後 警防団に“学校も焼けるから早く出て下さい”と言われて


外は 火の海でしたが 私たちは出ていきました。



大阪市浪速区浪速東3丁目の歩道橋



空地に 大勢の人が来て お蒲団を引いて貰って 寝かされて


そのうち雨が降ってきて


弟と 頭から 蒲団を被せて貰いました。


空襲が収まって 学校に戻ってきたら


お蒲団が 山積みになっていました。


父は母、大島志よ(49)を探しに行きました。




サムルノリ(韓国)の後ろに映り込む“リバティおおさか”(栄小学校 建物跡)




叔父が残って、明くる日の3月14日に


防空壕の入り口に 手提げ金庫が残っていて


胸に 5㎝の焼夷弾の直撃を 2発受けた母が


そこに 腰掛けるように埋まっているのを 見つけました。


即死でした。


父は 母が亡くなった事を一ヶ月隠しました。




エイサー(沖縄)の後ろに映り込む“リバティおおさか”(栄小学校 建物跡)



弟は“一つ、軍人は忠節を尽くすを本分とすべし”と


軍人勅諭をうわごとのように唱えながら 16日朝早くに亡くなりました。


お水が飲みたくなっても 火傷で声が出なかった私の代わりに


弟は“おっちゃーん!”と呼んでくれました。


姉が私にお水を飲ませて「三郎ちゃんも飲む?」と声を掛けたら 弟は死んでいた…。


母は 生焼けになった背中が 身につけていたお守りと一緒に焼け残っていたので 


弟と一緒に 自分たちの手で 火葬しました。




和太鼓の後ろに映り込む“リバティおおさか”(栄小学校 建物跡)



だから 幼稚園時代の楽しかった事と 空襲で逃げ込んだ事とが


重なっているここには 何十年も立てませんでした。


すっかり様変わりして見るのも嫌でした。


全然 住む人も変わってしまった。



旧渡辺村と大阪市内を結ぶ“旧渡辺道碑”



ここの焼け跡に 一番最初にやっと帰って来れたのは


“戦時災害保護法”(1942~1946年)の廃止がきっかけでした。




知ってて手続きをした空襲被害者には800円、


しなくても 200~300円の扶助があったのに


それが全く無くなってしまった。




それで あちこちに戦災傷害者・遺族の会“”ができて 


“空襲被害者等援護法”制定の運動が起こりました。





リバティおおさか(=大阪人権博物館、栄小学校建物跡)閉館から5ヶ月。


解体工事はまだ始まっていません。

みんな、黒田征太郎さんの壁画「きずな」のカケラの分配の抽選に当たるのを

まだかまだかと待っているというのに😂





私は 「あの日」、5歳で全身大火傷した女性が自殺してしまったのをきっかけに


「大阪戦災傷害者・遺族の会」を手伝っていて


33回忌の碑が ここに建てられたので、再び訪ねてきました。


再び、ここに立つのは怖かったです。


新なにわ筋(栄東歩道橋南)の交差点




それからは. 毎年3月14日頃には、ちょこちょこと来ていて


出会う人に話を聞く機会はあったけれども


もっと早く始めるべきだったと後悔しています。



市営バスの停留所の太鼓風のベンチ




焼夷弾の直撃を受けていなかったら もっと“近かった”と思うんですけども 


「あの日」の記憶を辿るのには 苦労しました。






頭の中が 真っ暗闇の中で 何も思い出せない。


ちょっとずつ ほどいていったんですけれども


お腹の 一番底に しまっていました。






逆に 私が お腹の底を えぐり出すことをして 泣きました。


でも それをやって 60年経って ようやく軽くなりました…









伊賀孝子さん


(プロフィールと補足)



1931(昭和6年)11月 大阪市浪速区の西濱で生まれる。


1945(昭和20年、13歳)3月13日 大阪最初の大空襲で、左手、右足、右顔面にケロイドが何年も残る大火傷を負う。母、即死。


1945(昭和20年)3月15日 小学校1年の弟、焼死。


1974(昭和49年、43歳) 「大阪戦災傷害者・遺族の会」結成。


1979(昭和54年、48歳) 「大阪戦災傷害者・遺族の会」初代会長が39歳で自殺。自殺した初代会長は、5歳のとき焼夷弾を受け、腹部を除いて全身に大火傷を負い、30回以上の手術をしたが、全身にケロイドが残っていた。


            伊賀孝子さんはこの頃から「大阪戦災傷害者・遺族の会」に参加して、次期会長に就任し、“戦時災害援護法”の制定を国に要求し(※今年、2020年もまだ実現できていない)、原爆被害者との連帯を追い求め続け、証言活動も積極的に行っていく。


1983(昭和57年、51歳) 行方不明者を含め1万5千人とされる“大阪空襲の死没者名簿”の作成調査を始める。

「大阪戦災傷害者・遺族の会」のメンバーとともに、お寺・霊園や慰霊碑を回って一人ひとりの名前を確認するという手探りの作業だった。

やがてマスコミに取り上げられ遺族からの電話が殺到する。


1999(平成11年、68歳) 死没者名簿の作成が(財)大阪国際平和センター(ピースおおさか)に引き継がれ、これまでに判明した9,033名(平成23年の時点)の名前が公開される。


2005年8月(平成17年、74歳) 平和への祈りをこめたモニュメント(大阪空襲死没者を追悼し平和を祈念する場)が完成する。


2020年(令和2年) 「大阪戦災傷害者・遺族の会」会長歴任。現在88歳。








<完>








編集後記


今回は、某「リバティおおさか」閉館6日前の本年5月25日に「証言の部屋」ブースにて
“大阪戦災傷害者・遺族の会” 会長の伊賀孝子さんのお話を聴いてきました。


お読み頂いて、皆様の7つの頃にタイムスリップして
何か一つ持ち帰って頂けたら幸いです👧👦



前回の記事をお読み頂いた皆様
他の記事もお読み頂いた皆様
10歳頃のお話をお聴かせ頂いた皆様
どうもありがとうございました。



私は、10歳頃に描いていた漫画を保管しています。
屋台のラーメンは、地下鉄「四天王寺前夕陽ヶ丘駅」や、阪急「蛍池駅」の寮にいた頃に
チャルメラのメロディーが聞こえてきたら、誰か2人以上と連れだって深夜に食べに行ってました😋







お時間頂き、どうもありがとうございました🙇。


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