ダブルっち。

小6~高3まで、親の近距離別居型生活に巻き込まれたダブルっち君(4月29日で19♡)も、晴れておかげさまで、広島での下宿生活を満喫中です!f^_^;)笑

2017年10月31日狭山事件は寺尾裁判長無期懲役判決から43年目を迎えます(冤罪54年)



🌸2017年10月25日、今年も 石川一雄さんより「10.31メッセージ」が発表されました。


 あと4日で、43回目の10.31を迎えます。


 今から43年前の1974年10月31日、
 東京高裁の寺尾裁判長は、狭山事件の「有罪確定判決」である「無期懲役」判決を
 言い渡しました。


 この判決が最高裁で確定し、
 石川一雄さんは今もなお、自由と人権を拘束され続けています。


 来年2018年は狭山事件発生から55年を迎えます。これ以上の引き延ばしは許されない。
 東京裁判所は、ただちに証拠開示、事実調べ、鑑定人尋問をおこない
 石川一雄さんがお元気なうちに、再審開始により、無罪判決を下してください。





🌸http://www.sayama-case.com/より、今年の10.31集会のご案内です。



  日時:2017年10月31日(火) 12:30 - 15:30
  会場:日比谷野外音楽堂 東京都 千代田区日比谷公園 1-5


  主催者: 狭山事件の再審を実現しよう


 □プレイベント 午後0時半~ 李正美さん(シンガーソングライター)
 □狭山再審弁護団報告「狭山再審はいま」
    中山武敏さん(主任弁護人)
    中北龍太郎さん(事務局長)ほか
 □石川一雄さん・早智子さん挨拶
 □アピール 武者小路公秀さん(反差別国際運動共同代表理事)
       鎌田慧さん(ルポライタ─)
       小林節さん(憲法学者)
 □連帯アピール 袴田秀子さん(袴田事件)
         菅家利和さん(足利事件)
         桜井昌司さん(布川事件)

 狭山集会初めてご参加の方や、どこに座っていいかわからない方は、

こののぼりのところに来てくださいとのことです。











🌸以下、メモ帳代わりの自ブログより。






🌸『酒井真右の十八行小説』 酒井真右/著より



 「人間誰でも歩きてぇ、行当たりてぇって性質(もの)持ってらいな。俺ぁからっきし学なし者だが、二人も孫が居る俺ぁが倅と同級の砂利篩(ふるき)悟なんざ二十で逮捕って、無実なのに、はぁ二十五年も牢屋にブチ込まれたまんま--- ---。悟をひッ張り出さなけりゃ この町この県この国の働く皆の生命に関わってんだから。昔っから、
  皿なめたが科(とが)を負う
 笊(ざる)なめたが科かぶる
 網にかかるな雑魚ばかり




 本当に皿の魚や笊の肉たらふく喰らっちまったは逮捕まらねぇで、罪科受けるなぁ無実のしがねえ人間達ばかり--- ---。触らぬ神に祟なし、でまいほーむだ、世界旅行だって、そっちの方は何百万、何千万--- ---。悟始め、無実の者を一生牢屋で嬲(なぶ)り殺しにして、その裏で悠々とたらふく喰らって、国家だ日本だぁってますます地獄穴深く掘って!--- ---差別こそが戦争に真直ぐ繋がってるんだ!昔っから只の一遍もなかった真実の革命にもってがなけりぁ!!さ、悟のカンパだ、頼む」(八八年九月)




 ニッポンの慟哭痛苦


  昔は今。一九六三年五月二三日、埼玉県狭山の石川一雄青年別件で逮捕(つか)まっちまったまんま「死刑」「無期」差別裁判が続いて、二十二年もずっと叩き込まれちまっている!この酷(むご)い事実を、この国一億二千数百万の働く仲間は知ってるだんべか。知ってる者も知らね者も、まとまって、この鎖を踏ん切らなけりゃなんね。この事件をそっちのけじァ、日米、日韓、日ソ、日中はじめ、すべての地上の国々と、この国の関係が根なし草になっちまう--- ---。




 この冤罪差別事件に勝つために、凡ての書き物を断絶し、狭山差別問題だけにペン一本で鋭く切り込んでいる偉大な文学者 野間宏が居る。
  石川一雄は、一億二千数百万の君らや僕たちの五体と心の一部分、切っても切り離せねえンだ!
  組織も俺も全人民が、地球丸ごと一つの平和な共和国を希い、裏漉(うらごし)して、ニッポンの慟哭痛苦のこの差別事件に勝利しなければ・・・。
 (八五年三月)
 







🌸『自白崩壊―狭山裁判20年』狭山事件再審弁護団/著/1984年より



野間宏氏談)狭山(※『完本 狭山裁判 上・中・下』)を
雑誌『世界』(※1975年2月号~1991年4月号,計191回連載)に連載するようになったのは、寺尾裁判長の、二審の確定判決、それ以後なんですけどね、・・・


スコップのところもね、あれが盗れるのはあそこに雇われていた人だけだというけど、そうとはかぎらないでしょ。がいるけれども、どこからでも入れるわけです。


そういう疑問がいっぱい出てきて、これは大変だと思いましたね。これはやらないといけないと決意しましたね。それから始まったんです。・・・」










🌸『完本 狭山裁判』野間宏/著より



『狭山裁判・上』頁349~350


一審第五回公判調書の中の、五月一日夜、内田幸吉氏の言う石川被告が氏宅を訪ねた時、


が吠えたか、吠えなかったかを巡って、氏が証言しているところを見よう。・・・



弁護人(副主任): ああ腹が減ってるような時には哭くんですか?
内田幸吉氏 : ええ、哭きません。近所の方が来てもなんでも吠えませんから。・・・


 もちろん裁判長は、この二つの言葉を同時に使うことは不可能であることを明かにし、どちらか一方を採用するよう氏に注意すべきなのである。
注意するだけではなく、このようなまったく反対の意味を持った二つの証言証言として認めることはできないとすべきなのである。


しかし一審の内田武文裁判長は裁判長として当然すべきことをしていない。
しかし二審の寺尾裁判長は、このことを少しも追及することなく、二審の裁判をすすめているのである。・・・


「同人が飼っているがよく吠えるかどうか、当夜吠えたかどうかについての同人の証言がはっきりしないからといって、前記の証言の信憑性を疑う理由とはならない」


寺尾裁判長判決文で述べている。・・・


 さらに、これを文章のうちにはいって見るとき、・・・日本語の文章法として、ないものなのである。


もっとも裁判用語の多くが、日本語と認めがたいものが多いということから見るとき、この「ええ、哭きません」という言葉が日本語の文章法にないものであることを感知し、審理のなかにそれを引きだし、問いただすことが、裁判長の能力を越えているとするならば、これは日本の裁判制度そのものに備わる大きな欠陥を示すものであるし、この問題は日本の裁判制度全体を変えなければ、日本の裁判は真に正しい審理を行うことは不可能であることを明確に提示している大きな問題として、日本人全体の前に置かれなければならない。







『狭山裁判・上』 頁435
(※1977(昭和52)年8月10日最高裁判所第二小法廷 吉田豊裁判長 上告棄却決定の件で)


石川一雄被告の有罪の追認ということである。・・・
 しかもその「決定」にあっては、この事件には いまだ「解明されない部分」が残されていることが認められている。・・・


 この最高裁判所「決定」は、まさに今日の日本の裁判所を根本から疑わせるものであるが、それは、これが日本における民主主義の否定につながるが故であり、日本に生きる一人ひとりの人間の生得の権利、その基本的人権を侵して素通りする道をひらくものと言ってよい。


このような「決定」を、私もまた日本の多くの人々と同じように認めることはできない。
このような「決定」はこの日本の不幸であり、また日本についての正しい国際的な評価を失わせるものである。


 裁判は殊にもっとも重要と考えられ、また法律上定められている最高裁判所の裁判は、このようにあわただしく突然その「決定」を公にするなどということがあってはならないのである。・・・


 もし信ずるところがあるならば、最高裁判所はこれらの問題を避けることなく正面から受け止め、その決定の発表にさいしては、前もって広く予告し、その真実とするところを公にするのが当然と考えられる。またそれが最高裁判所のまさにすべきところである。


しかし最高裁第二小法廷はそうしなかった。その決定の突然の公表は違法ではないということであろう。・・・


 しかしそれでは違法ではないということが残るのであって、あるべき最高裁判所はないに等しいのである。・・・







『狭山裁判・上』 頁六二三~ “再審制度の意味”より


再審は確定判決における法的安定性の要求と実体的真実主義に基づく具体的妥当性の要請を調和させるための制度である」(今野健検事)などと考えていて、それでよしと出来るだろうか。


 再審の請求は、確定判決にもし誤りがあることが明らかになれば、それを取り上げ、確定判決の法的安定性などは否定しても、新証拠とすべきものの提出によってそれを採用し、再審の審理に入り、無罪判決に至るべきものであろう。・・・


 ここには再審を特別に狭く、極めて限度厳しく考えようとする狭溢な精神があらわに現れ出ている。


 法的安定性とは何をいうのであろうか。
 裁判の国家的厳重性、その慎重な運び、裁判官の優れた審理を重ねることによって得られた判決の決して誤ることのないことを言うのであろうか。・・・


 しかし、裁判誤りがないなどとということは出来ないことである。


ごく最近のことを見てもすでによく知られているように、弘前大学教授夫人殺し事件、加藤老事件などによって・・・


 ひとりの人間を裁判の誤りによって、大きく左右し、長年の刑に服させ、また一生を日陰の場所にあって過ごさせるというところに導いたのである。しかも・・・


誤った判決を行った裁判官、また誤った検察を行った検事、誤った取調べをした警察官がこれによって大きな責任を問われることもなければ、また責任が何処にあったかを問いつめ明らかにするという制度もそこにはつくられてはいないのである。


 日本の裁判制度には大きな欠陥があるのである。







『狭山裁判・中』 頁六九九~ “串部・北田鑑定人の意見書 再逮捕後の自白強要”より


脅迫状の中の金を持ってくるよう指示した日付脅迫状の中で如何に重要であるかは、少し考えるだけですぐ明らかになることである。


もしこの日時に少しでも誤りがあればその脅迫は全然役には立たないのである。相手が金を持って来る日が違えば、金を脅し取ることは出来なくなる。


 金を持って来るように指示する日時と場所と金額、この三点が脅迫状では最も需要な要素なのである。・・・


 それが記憶から消え去るなどということはありえない。







『狭山裁判・中』 頁六八七~ “脅迫状 訂正日付の問題を回避”より


(※1979(昭和54)年10月9日東京高等検察庁検察官 今野健検事 意見書提出の件で)


「仮に・・・」という仮定法でもって、この四月二九日という消すことならぬ物質的な痕跡によって明確とされている日付を扱おうとするのである。


ここのところに、真実追求をすすめる裁判に深くかかわる検察官に最も必要な、証拠を何よりも大切にし、一歩一歩真実に向って出発する要件の失われていることが明示されているのである。・・・


検察官今野健検事は明らかな証拠によって、しかと支えられている四月二九日という日を正面に取り出して裁判の場の上に置こうとせず、確かな証拠物によって支えられることの全くない供述調書の「自白」の方をば如何にして取り上げようとして苦心を重ねているのである。・・・


 このような検察官今野健検事は・・・即刻検察官を辞任すべきなのである。・・・
同時にこのような検察官の資格のないことを自ら証明した今野健意見書を、東京高等裁判所がそこに何の疑いも差し挟むこともなく受け取ったことに大きな疑問を抱かない訳にはいかない。


 東京高等裁判所第四刑事部は、今野健意見書を、検察官の資格のないものの書いた意見書として東京高等検察庁に返却すべきなのである。・・・


 このことは、狭山事件を見守ってきた多くの人々の許すことのできないことであり、再審の門が広く開かれ、この狭山事件の再審が真に再審の名に価するものとして真実追求の歩みを進めることを求めている多くの人々の容れることのできないことである。


 四月二九日という日付が新しく見出されたことは、石川一雄氏の無実無罪であることを完全に証明している。







『狭山裁判・中』 頁九〇〇~より
(※1981(昭和56)年5月29日 東京高等検察庁 十五点の証拠開示の件で)


東京高等検察庁は十五の証拠開示をしたのだが、それがこれまでの裁判の判決、決定その他を揺るがし覆すようなことのないものばかりを選んでその上で開示したというようなことがあるならば、もちろんそれは却って東京高等検察庁に対する信頼を失わせることになるのであって、それによって日本の裁判官、裁判そのものに対する最近の国民の不信を深めるという結果を生むことになるほかないと考えられる。
それは私の望むところではないしまた求めるところでもない。






『狭山裁判・上』  頁230


最高裁判所は、これまで事実審理を行わないとされている


しかし今日、荻野助教授の行い成功した、走査電子顕微鏡による、この上なく微細な対象表面の変化をもとらえて、その原因を明らかにし得る鑑定方法が見出された限り、これまでの審理慣例にとらわれることなく、この多くの人々の疑いを招いている筆圧痕の問題事実審理を行い、正しい鑑定はいかなるところにあるかを明にし、今日の裁判そのものについての多くの疑惑を消し去るべきであると私は考える。


 最高裁判所の任務は重く、日本に正しい裁判がいまもあるかいなかを鋭く問われている現在、正しい裁判審理のあることを国民の前に示すべき時である。







 『狭山裁判・上』 頁四三五


 (最高裁判所は、その「決定」にあたっては)総合の立場と
 でもいうような、あたかも客観的で、法的に効力があるか
 のような、まったく主観的にして、予断の入り込んだ、判断
といえない判断によって有罪との判定を出したのである。


この最高裁判所「決定」は、まさに今日の日本の裁判
根底から疑わせるものであるが、・・・このような「決定」
 この日本の不幸であり、また日本についての正しい国際的な
評価を失わせるものである。


さいわい、この最高裁判所の「決定」について心から憂慮し、
この日本にこのような「決定」が出されることがないようにしようという
実に多くの人々は、この「決定」によって、有罪
 さだめられたなどとは決して考えない
・・・


私もまた同じ考えである。再審の道へと、さらに同じ道の
上を歩かなければならない。


この最高裁判所第二小法廷の「決定」を前にしたとして、
これによって、有罪であり、犯人であることが真実となった
 わけではないからである。






『狭山裁判・上』 頁四三五


この最高裁判所第二小法廷は、何を恐れたのであろうか、
 余りにも突然、急ぎ足で今度の決定を出したが、その決定
にいたる通常の手続きにさえ実に多くの、そして大きな
裁判には欠くことのできない欠落がある故である。


 何を恐れたのだろうか。もちろん真実をである。


裁判は、殊にもっとも重要と考えられ、また法律上
 定められている最高裁判所の裁判は、このように慌ただしく、
 突然その「決定」を公にするなどということがあっては
 ならないのである。・・・しかし最高裁判所第二小法廷は
 そうしなかった。その決定の突然の公表は違法では
 ないというのであろう。


しかしそのように言い、それを通すことによって、
 
日本の裁判はもっぱらその威信を失うばかりである。




 『狭山裁判・上』 頁一一三三


最高裁判所決定は、この地下足袋、
足跡
について上告趣意書
理をつくして論証し、
 明示しているところに
少しも眼を向けることなく、
ただ確定判決を追認するために
 その表面上の形姿を整えるのみであり、


その内容は少しも
真実追求の審議によって
埋められることなく、
まことの決定から
 とおく隔たっているのである。・・・


裁判における真実追求
 いかにあるべきかを問いつめながら、
 足跡をめぐる問題を見続けよう。







 『狭山裁判・下』頁1833


 世界のいわゆる先進国の裁判制度のなかで、
 日本の裁判自白偏重主義とでもいうべきものが、
 取り去ることは、まことに困難であり、
 絶望に近いものが、私に訪れる。


一度、自白した場合、
それを犯罪犯行の根拠の一からはずすのに
 まことに困難な国家

日本の他にないといってもよい。


 最近、ようやく少数の裁判の中で、
 自白のみによって、根拠づけられ、
 他に何の根拠となるべきものを、
 捜査によって見出されていないと、
 言い切った判決が聞かれて、
 私もようやく、
そのところまで到達しようと
 しているのかという思いがしたが


 これが長い年月をかけて
無罪を証明するということになると、
 決してこのような訳にはいかないのである。


しかし裁判はいかなる刑事裁判であれ、


自分自身の上にふりかかって来ているという思いをもって
一人一人がその裁判の一つ一つを見るとき


 この日本も、いま、
 少し高い位置をしめることの可能なところに
 さしかかっているのだという思いが、
 訪れる時がやって来るのだろう。







『狭山裁判・上』 頁四四七




部落問題を理解することなくして、この裁判を
進めてきた、第一審、原審の裁判官は、この
裁判を行う資格を欠いていたというべきだろう。


これらの裁判官は憲法第一四条も十分に読み
 とってはいなかった。部落問題を理解すること
 なくして、憲法第一四条がそのもっとも深い
内容を担って実現するその「差別されない」
 いう言葉の包みこんでいる意味
を理解することは出来ない。・・・


最高裁判所第二小法廷の裁判官もまた、この点に
 おいて、第一審、原審の裁判官とまったく変わる
 ことがない。







 『狭山裁判 中』 頁一二九二



(寺尾裁判長が判決で一言も触れなかった 戸谷鑑定人提出の筆跡鑑定については)


 似ている、違っているなどという余りにも
主観的すぎる鑑定方法によって、すぐにも
犯人と決定されるような従来の筆跡鑑定
 方法に代わる、精密にして誤ること少ない、
 筆跡鑑定は如何なるものか考えつくそうとし、
その鑑定方法作成に全力を傾けている
戸谷鑑定人の苦闘の跡を 私は出来る限り、
 解りやすく伝えることにより、日本の犯罪
 捜査と裁判制度
を、人権にふさわしい
 ものにし、冤罪を一切なくすために生命を
削っている方々の努力によって日本の裁判
必ずよくなるとの希望が多くの人々のもとに
生まれることを願いながら 書いたのである。





『狭山裁判・上』頁四五三



寺尾裁判長は、青木英五郎弁護人に島崎藤村の『破壊』を読んでいることを語っているが、この藤村のすぐれた作品、部落民である瀬川丑松を主人公にした作品も、まことの被差別部落に生をうけたものの心と肉体を欠いているのであって『破壊』を読んで、被差別部落に生まれ、部落差別を受けてきたもののすべてを、とらえているとの判断に立っているとすれば、それは、まことに誤りというべきものである。








『狭山裁判・上』 頁四四八



このように言ってもこの私の言うところについて、
これらの裁判官がただちに受け入れるなどという
 ことは、考えられない。


 私は、部落問題の何たるかをここで、まだ解明する
 ことをしていないし、さらにまた、この文章の中で
 それをするなどということは出来ないからである。


とはいえ、これらの裁判官たちも、やがて、私の
言うところに、があるということに思いあたる
時が、必ず訪れるということを私は考えている。


そのとき、これらの裁判官は、もちろん、各自の
根底からの自身のあやまりに気づいて、自分自身に
 ふるえおののくだろう。


そして差別的審理と判決の責任の重大なことを考えつくす、
その入り口のところに立つほかないのである。














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