ダブルっち博物館

小6~高3まで両親の近距離別居型生活に巻き込まれたダブルっち君(1998年4月29日生まれ)も、晴れておかげさまで、フリーダム生活を満喫中です!f^_^;)笑

3月3日=全国水平社創立大会が開催された日。


1922(大正11)年3月3日全国水平社創立大会が京都岡崎公会堂で開催された。






  一九二二年三月三日の朝は快晴で、暁闇のうちから京都駅に着いた岡山の青年たち、消防団旗を持ってハッピを着てラッパを吹きながら駅から降りてきた奈良の一団、関東からの一団などが次々合流し、行く道にはずっと行列が岡崎公会堂まで続いていました。参加総数は二五〇〇~三〇〇〇人程でした。


  午後一時、開会のベルが鳴り、執行委員長の南梅吉が拍手に迎えられて登壇しました。続いて式次第に従い阪本清一郎が「粒々辛苦の経過」を報告し、桜田規居矩三が綱領の三項目を朗読しました。



  桜田が綱領を読み終えても歓声と拍手はなかなか鳴り止まず、


次いで大柄な駒井喜作が創立宣言文を持って登壇し、朗々と読み上げようとしましたが


「全国に散在する吾が特殊部落民よ」で言葉が詰まり、やっとしてから「団結せよ」と続け、「長い間虐められてきた兄弟よ」でまた言葉が切れ、さらに「何等の有難い効果を齎さなかった」に絶句し、「吾らの祖先は自由平等の渇仰者であり、実行者であった」で声涙ともに下り、「吾々がエタである事を誇りうる時が来たのだ」は悲壮でした。


それからは駒井喜作はゆっくりと読み続け最後に、「水平社はかくして生まれた。人の世に熱あれ、人間に光あれ。大正一一年三月三日、全国水平社」と結ぶと、三千の観衆はみな声をのみ、駒井喜作も降壇するのを忘れて壇上に立ったままでした。
そして、観衆は手を握り合い、肩を抱きあって喜びの涙を流し、しばらくして堂をゆるがすような大拍手が起こりました。




 そこへ米田富が三項目の決議文を持って登壇し、一項一項読み上げるたび、割れるような拍手とそうだそうだの声援が聞かれました。
  最後に大柄な泉野利喜蔵が登壇し、祝詞・祝電・激励文を読み上げ、大会は終了しました。
 一斉に「エタ万歳、水平社万歳」の声が聞かれ、引き続き各地の代表者演説に移りました。


  この次に登壇したのが少年代表の山田孝野次郎でした。



  全国水平社創立大会の翌年、一九二三年の九月一日午前一一時五八分に、関東大震災が起こりました。その時、栃木県水平社大会に弁士として参加していた少年は、東京に滞在中でした。西光万吉と阪本清一郎が少年の救出に向かい、満員機関車の最後尾にしがみつくようにして帰郷しました。




  少年は、奈良県柏原出身の山田孝野次郎(といい、阪本清一郎らが作った「社会問題研究部」の最年少メンバーでした。彼は一九〇六年に七人兄弟の三男として下駄の修繕業を営む家に生まれました。ちなみに一九〇六年は島崎藤村の「破戒」が出版された年です。




  山田孝野次郎は、一九二二年三月三日の全国水平社創立大会でも少年代表として、「生徒の様子を心配」した校長の職務命令でやってきた担任の安川藤作が密かに参加する中、以下のように来会者に訴えました。




 「奈良県の山田です。私は学校で同級生や教師から差別され、身も心も冷え切るような思いで過ごしてきました。校門をくぐったら最後、勉強どころか涙で一日が終わる日が何回もありました。教壇に立った先生のひとみは何という冷たいものでしょう。しかし、それで、わが身が悲しいかというと決して悲しくはありません。 



 私には世間からさげすまれなければならないいわれが、なにひとつないからです。尊い人というのは、生まれながらにして、何か他の人と違う印がついているのでしょうか。まさかそんなことはありません。尊い人も賤しい人も存在しないのです。私の体の中には他のすべての人達と同じように赤くて熱い血液が流れているのです」




 堂内の各所からも壇上の委員からも嗚咽の声が聞こえた時、彼は
「今、私共は泣いているときではありません。大人も子供もいっせいに立って、この嘆きの因を打ち破ってください。光り輝く新しい世の中にして下さい」
 と高い声で訴えました。
 (1924年3月5日全水青年同盟西浜支部の演説会)
 



 創立大会で大人顔負けの活躍をした山田孝野次郎は、学校ではどのような少年だったのでしょうか。
  当時、富田校長による朝礼が毎日あり、柏原部落が「トラホーム(伝染性慢性結膜炎)が多い」、「汚い」、旗日に日の丸を「立てない」と言って中傷を繰り返していましたが、山田孝野次郎は直談判してこれをやめさせました。
また、卒業式で総代として答辞を読むとき「謝恩の辞を投げ捨てて、火のような憤りを舌端に燃やした。卒業式は大混乱に陥り、校長始め一同は色を失った」とのことです。



  山田孝野次郎はその後、松本治一郎と行動を共にして九州に滞在しており、一九二七年の盆に最後の帰郷を果たすと、一九三〇年脳腫瘍によって失明し、翌年三月九日に二五歳の若さで他界しました。
  葬儀は全国水平社葬として西光寺で営まれ、参列者は全国から二千余名にのぼりました。
  なお、山田孝野次郎顕彰碑が全国水平社委員長の松本治一郎によって小学校前に建立されましたが、建碑当日は故郷を離れて久しかった彼に区内で協力者はなく、身内だけという寂しいものでした。




  全国水平社創立大会と同年の四月の奈良県水平社創立大会演説では、小学生代表の井上千代子(一九〇六生まれ)が登壇しています。
 「これも要するに我々に意気地なき結果なること、そしてこの苦痛と迫害より逃れんためには、今日から我々が一致団結して暖かくそしてよりよき世の中を造らん」
  と、彼女は大人顔負けの主張をしました。




  続いて山田孝野次郎が「宣言」を朗読し、婦人代表の中西千代子は子連れで「水平運動によりて未だ自己に目ざめざる人は、最も愚なり」と部落大衆の自覚を促す主張をしました。
  少年少女水平社、婦人水平社は同年三月に大阪で設立されています。





  一九二二年の全国水平社創立大会は成功裏に終わりましたが、そのあと、西光万吉らを失望させる事態が待っていました。


  官憲は治安維持法をちらつかせ、
 「(弁士)中止という声が一声かかったら、それからは一言言っても、違反になるわけです・・・私は奈良県十八の警察のうちで一晩も留められなかった警察は二つしかありません・・・」
  と米田富は当時の様子を語っています。




  同年五月一〇日の奈良県(柏原)水平社の結成から間もない五月一四日には、南葛城郡の大正尋常高等小学校で、「今日はエッタの掃除当番か」と部落外の一児童が発言をしたのを契機に、大正村の小林部落と部落外の学校関係者、保護者との間で激しい争論が置き、小林部落の木村京太郎(当時二〇歳)ら七名が御所署に出頭して事件の真相について述べましたが、七〇日余りも五條監獄での獄中生活を強いられることになりました。





  同年六月四日には、大和同志会が二〇〇名の参加で協議会を開いて水平社に対抗することを協定し、それを受けて柏原部落の親友会も出席者一〇〇名で西光寺で総会を開き、「一、水平社は過激であるゆえ加盟しないこと 二、穏健な手段で部落改善を図ること」を協定しました。




  そんな中、全国水平社は一九二三年三月二~三日に、前年と同じ岡崎公会堂で、第二回大会を迎えました。東西両本願寺に募財拒絶を通告する示威運動を展開していた全国水平社は、三日の午前五時の早朝、雨の降る中、五千余名が、三府二七県の先頭には、五尺の先端を斜めに切った青竹の先には荊冠旗、数十名の消防服姿のラッパ隊による行進曲という隊列で、まず東本願寺に向かいました。




  隊列の先頭の栗須七郎(当時四一歳)は和歌山県本宮の苔部落出身で、いつも長髪で腰に縄を巻いていたので「水平の行者」と呼ばれていました。隊列が須弥檀を背景に整列すると、彼は賽銭箱の上に立ち、両本願寺が「我等の正に建設せんとする新社会の完成に障害を與ふものなるを以て、其存在を否定する為の募財拒絶を断行する」と宣言しました。



  再び、示威運動は隊列を組むと今度は西本願寺へ向かいました。今度は西光万吉が賽銭箱の上に立ち、「我々は此誤った宗教、誤った道徳を改むる躾けとして、先づ此偶像を破壊せざるべからず、茲に於て初めて本当の親鸞は実現し得るだらう」と絶叫しました。
  その後、午前一一時に隊列は岡崎公会堂に到着しました。正面玄関には、黒地に赤荊の冠が描かれた荊冠旗が張り出されていました。




  さて、この荊冠旗を考案した西光万吉は、旗の「黒地」に「我々の過去と現在の陰暗な生活」を、「赤荊の冠」に「罪人の印として」キリストの頭に載せられたものとして、受難と殉教を象徴させました。若い米田富( 1901-1988 )は、西光万吉が荊冠旗と旗竿に託した思いを聞き、この荊冠旗に「部落民の誇り」「殉教者としての誇り」を見ました。



 米田「われわれは殉教者という誇りと、そして信念で進んでいかなければならないというのが、キリストの刑死に影響を受けた西光さんの考え方で、だれも反対する者がない。私のごときは、荊冠旗についての説明を、西光さんから聞いて、肩身が広くなって”殉教者だ、殉教者だ”ということで、力づけられました」




西光「黒地に赤荊の冠であまり気味のよいものでないばかりか、その旗竿の先を鋭く斜めに切った青竹にする・・・。(中略)しかも旗竿はかならず生々しい青竹の竹槍でなければならぬ。この当時の私たちの陰惨な受難殉教の気持ちをそのまま表現している。



この旗を見ずして水平運動は語れない。まさしく小さい星一つさえないこの旗は、絶望的にさえ見えるにもかかわらず、血みどろな人間が、まだ殺されずに生きている、しかも立ち上がろうとする。そんな気持ちが、私にこの旗と竿を考案させた」




米田「われわれ部落民は 獣の皮をはぎ、獣の心臓をさき、牛殺し、馬殺し、そういうことで差別をうけたけれども、それをやる者がなかったら、着るものの、食べるものも、履くものも出来ませんのや。モーニングコート着て、にわとり同様、足元だけ裸足やったら、これ、うつりまへんで!」




参考文献「至高の人 西光万吉」(宮橋國臣著/人文書院、2000/02)



※17年も前のお話になりますが、
 縁あって、ご著者の宮橋國臣氏と、何度かメールのやりとりをさせていただき、
 弊HPへの抜粋・転載も、事あるごとに、こころよく承諾いただいたのです…(°´ω`°)✧


カミングアウトにこぎつけたことに、感謝でありますよ~ヽ( ´ω`)人(´ω` )ノニャカーマ


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