ダブルっち博物館

小6~高3まで両親の近距離別居型生活に巻き込まれたダブルっち君(1998年4月29日生まれ)も、晴れておかげさまで、フリーダム生活を満喫中です!f^_^;)笑

Re3:聞いて置けば良かった。と思う事が有ります(返信)





(=∩ェ∩=p【むすメル】q=゜w゜=)




>今1つ、いつから満年齢で表記することに制令で決まったのか?時間が許せば調べて見て下さい


数え年から満年齢への移行のことでは、いくつか調べてみたケレドモ、


年齢のとなえ方に関する法律(昭和24年5月24日)では、満年齢が使用される事になったのは
① 正確な出生届の促進
②国際性向上
③配給における不合理の解消 等の為
とありました。


この内、③配給における不合理の解消 が、当時もっとも切実で


(以下、ネットよりコピペ)


例えば12月に子供が生まれ翌年2月に「2歳だ」という理由で
キャラメルが配給されることなどはよくあった。
当然のことながら、生後2か月の乳児にキャラメルを支給しても無意味である。
また、満年齢では50代であるのに 数え年では60代という理由で
配給量を減らされるなどの問題も起きていた。
配給量の基礎となるカロリー計算は満年齢を基に算定されていたにも関わらず 
実際の配給の現場では数え年を基に支給されていたため、
これらのような支障が生じていた


というのが真相だそうデス…。


何が言いたいって、
当時まだ7歳だったお母さんの質問に、
この法律を作った官僚が、一人でも生きてて、ちゃんと答えて欲しかった事。



狭心症で倒れる、70すぎまで、
祖母の支えもあって、自分の腕一つで 大家族の生計を立てていた、大垣の祖父…


大垣の祖父母(父方)の実家を訪れる時は、
わたしたち孫は、静かにしていなければ、
寝たきりの祖父が暮らすお座敷の襖の向こうから、
絞るような祖父のお叱りの声が飛んできたのを覚えています。


祖父は、(祖母かお嫁さんのどちらかに、常に、自分のおそばに仕えてもらわないと気が済まないひとだった…というよりも)
きっと、少々「寂しがり」だったんだろうなぁと…。


帰り際、ドキドキしながら挨拶したとき、とても優しかったのを忘れられません。


その、大垣の祖父の葬儀のあった夕方に、
名古屋の 捨次郎おじいちゃん(母方)が
ふいに玄関に現れ、わたしたちが知らないうちに帰ってしまったのは、よく覚えています。


他方、長年、音信不通だった長兄(大垣の祖父の先妻のお子さん)が、
ちゃんと来られたかどうかは、ちょっと記憶にありません。


長兄が、家出同然に、家族と離れて暮らしていたあいだに、
弟(3男)が 約束されたように、親父サンの仕事の後を引き継いで、
上の立場に立ってしまっていたので、
長年、相当な劣等感を抱いていたのカモしれないですね…。


再婚や、歳の差婚の全てに、落とし穴があるわけじゃなくて、


実際、実のお母さんを病気で亡くしたばかりの長男が、
とてもよく懐いて(馴染んで)いた方に、お嫁さんに来て貰って、


(お父さんより20も)若いひとが、自分のお母さんになっても、
最初は、何も問題がなかったハズですよね?


それでも、
以後、新しいお母さんと血のつながっている兄弟姉妹が次々8人も産まれて、


長兄は陰で
父の最初の結婚で生まれた自分1人が のけ者にされたかのように
感じていたのかもしれませんね…。


相当寂しい思いをしたのかもしれませんね…。









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