ダブルっち博物館

小6~高3まで両親の近距離別居型生活に巻き込まれたダブルっち君(1998年4月29日生まれ)も、晴れておかげさまで、フリーダム生活を満喫中です!f^_^;)笑

Re2:聞いて置けば良かった。と思う事が有ります(返信)




(=∩ェ∩=p【むすメル】q=゜w゜=)


お母さんが、なぜ、わたしたちに思いだした事を話したいと思ったかは
わかりたいような、わかりたくないような?(複雑なムスメ心)


お母さんは、おばあちゃん(お母さんの母)の40代の子どもデシタカ?


三重出身の友人に
三重県桑名市は 放言や出掛ける時も 名古屋に行く事から、
ほぼ愛知県みたいなものだとは聞いたことはあります(←てか、地理弱いのバレバレ)


お母さんは わたしたちが生まれてから 本当に本当に毎日が大変だったと思うケドモ
ワタシなどは 幾つになっても赤ちゃんのようなもので いてもなんにもお役にたてない奴で 
心からゴメンナサイ。



(=∩ェ∩=p【むすメル】q=゜w゜=)


(お母さんは、おばあちゃんが35才の時の生まれとは…。)


お母さんが祖父母を知らないのは
晩年の子供ダカラじゃないかっていう 勝手な憶測があったんですケドモ、
全然 晩年じゃないですネ。失礼イタシマシタ。 ハハハ 


祖父母の生まれた時代から すでに100年以上経ってしまったのかと思うとびっくりデス。
おじいちゃんは 昭和天皇と同じ1901(明治34)年の生まれだったようデスガ
そのことで 何か言ってたりしたのですか?


おばあちゃんが お姉さんの誕生年月日と産んだ年齢を言うとき
頑なに 数え年で言ったというエピソードに ちょっと親しみを感じました。
重要な数字の並びにこだわるスピリットに、
明治生まれも 昭和生まれも 平成生まれもない…ミタイナネ?


曽祖父母は、美談抜きで、
誰も知らない国に 夢を求めて 移住を決めたスピリットは すごいと思います


曽祖父母は、もしかしたら
ある日突然 南米へ渡って、
そこの日本人街で 日本人どうしで仲良く暮らして、
そのまま 特に日本に帰りたいとは思わなくなって、永住したのカモしれませんネ。南米移住説(棄民哀史ではなくて)。
間違っていたらスミマセン。
節の変わり目なので くれぐれも体調ご自愛ください




(=∩ェ∩=p【むすメル】q=゜w゜=)


『加○一世』という祖母の本名(旧姓)、出身を知っているのは
三人きょうだいではワタシだけカモシレマセンネ(深い意味はナッシング)


でも、『天○捨次郎』という祖父の名前に『捨』の字がついている意味
(この下にはもう子どもはいらない)は、三人とも、多分、知ってます。


曾祖母(三味線が弾ける明治前女性)が、
贔屓の歌舞伎役者さんの楽屋へ、現代で言う「追っかけ」(失礼!)をしていた頃に
身籠った子どもが 捨次郎おじいちゃんだったから、
そんな酷い名前を付けられた、という話も、何処かで誰かから聞きました。


…曾祖母は、本気の恋をしてたのカモしれませんネ(生意気な)


戦争、食糧難、生活物資不足、7人の子どもの子育て、姑同居の悩みと、
すべて乗り越えてきた明治女のおばあちゃんにとって、一番キツかったのが 
二人の子どもの死でしたか?
(やっぱりいつの時代も母は同じかと、勝手に親近感)


ジフテリアは 今はほとんど見られなくなった病気で
今の時代に生まれたら おばあちゃんの子どもは二人とも助かったと思うと
残念です。一番可愛い盛りだったのにね。




(=∩ェ∩=p【むすメル】q=゜w゜=)


ワタシは、学校でさらっと、「天皇も 一般庶民と 身分的には同じ」と習っただけだケレドモ、
お母さんは、最初は、
「恐れ多くも天皇陛下に!」と怒るこわい先生たちのいる小学校へ入学して、
その後、小学1年の8月15日(敗戦)をさかいに、
自分で(文部省通達で)、すみで黒く塗りつぶした教科書を使って
おなじ先生から、180度違う授業を受けてきたんですね。


ほんとに 大混乱な時代を生きてきたんだなと、自分の事がちゃっちく(茶地に)見えます。



















































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