ダブルっち博物館

小6~高3まで両親の近距離別居型生活に巻き込まれたダブルっち君(1998年4月29日生まれ)も、晴れておかげさまで、フリーダム生活を満喫中です!f^_^;)笑

聞いて置けば良かった。と思う事が有ります。(母の過去メルより)


゚o。o゚(=^・^=p【実母メル】q=^・^=)゚o。o゚


 何故、話したいと思ったか…。


私の兄姉達は、三重県の桑名で生まれたそうです。
お前(私)は名古屋で生まれた、と聞いただけです。
末っ子は終戦のS20年9月に一宮市の疎開先で生まれました。

私は両親の親達つまり祖父母を知りません。

自分のルーツと云うか、何か寄りどころとなる確たるものが欲しいですネ。
そんな訳でメールしました。


聞いておきたい事、知りたい事何でも言って下さい。
私も母親に色々聞いて置けば良かった。と思う事が有ります。


お元気で☆又




゚o。o゚(=^・^=p【実母メル】q=^・^=)゚o。o゚


父親(1901)34年生。愛知県一宮市に兄姉がいました。
母親(1903)36年5月4日生。岐阜県東濃の人だとか…。

さて私は、1938年11月生ですから、母の35才6ヶ月の時です。


母は 姉 美〇子(1935)S10年3月3日生を
わしの33才で生んだ子だと時々言っていました。
思うに、33才の3月3日に特別印象が強かったのでしょうか。

当時は、現在と違って、数え年で表していました。子供の頃満何才と応えていました。
満で言えば、姉も母の31才と10ヶ月の誕生となります。


暖かくなりました。色々検索してくれ有り難う。


お元気で☆又




゚o。o゚(=^・^=p【実母メル】q=^・^=)゚o。o゚


二人は、恐れ多いですが 昭和の天皇皇后両陛下と同年齢です。


父 天〇捨次郎は その名前で判りますが、5~6人兄姉の一番下です。


母 加○一世と所帯を持ってから、しばらくはと同居をしたようです。
姑は、何か気に障ると三味線を持ち出して、ベッベンベンと強い調子で弾いたりと、大層気の強い人で、粋な人でもあったようです。


現在私は7人兄姉弟ですが、兄の上に、男と女の子二人生まれていて、
3~4才(満2歳)頃ジフテリアに罹って亡くなったそうです。
後年、そりゃあ可愛いかった!と思い出しつぶやいていました。
我々が反抗期にさしかかった時期でした。



母の兄弟妹も6~7人いたようです。
日本に所帯持ち兄(瀬戸市)妹二人と自分が残留し、
弟2~3人と両親で 南米へ渡ったようです。


 両親の生年月日から考えますと、祖父母は、明治維新頃の人達です ネ。
何か大変な時代に生きた人達なのだと、感無量です。
では又、お元気で☆




゚o。o゚(=^・^=p【実母メル】q=^・^=)゚o。o゚


さて 貴女の父方の大垣の両親、あなた方の祖父は〇田和一、祖母はすえの、です。
子供は男4人と女4人で、亡くなられた前妻の子が、一番上の長男でして、皆で9人です。


貴女の母方、天○の両親について、学校は父が尋常4年まで、母は学校へ行った、と云う事は聞いていません。


八っつで奉行に出されて、子守をしながら村の学校の窓の下で聞いていた…とか、便所の明かりで本を読んだ…とか、聞いた事が有ります。
満年齢で6~7才でしょうか。涙が出ますね。
(おしん)と同じ時代の人だと思います。



母も姑と同じで気の強い人でした。
我々子供が、偉そうな態度や言葉を言ったりした時や、下駄屋と、さも蔑みの目で見られたりすると…、じっと我慢して下駄の鼻緒をすげてはいましたが…。


わしが学問していたら……。とよく言いました。悔しい思いをしたのでしょう。


母の父は、16の年迄下男付で育った人だそうで、後年読み書き算盤を教えた人だそうです。
母の祖父か曾祖父は、尾張藩の槍の指南をした人だそうです。
世が世なら、わしは士族の出だ…。とも言うのを聞いた事が有ります。
矛盾した時代を生きて、大変だったと思います。


今少し財産なり、資産なりが有ったならば…。
是が外国(南米)への出稼ぎに…つながったのかな?


 写メ、有り難う。お元気で、又☆



゚o。o゚(=^・^=p【実母メル】q=^・^=)゚o。o゚


 貴女の父方、大垣の祖父は、昭和36年頃は、大変元気でした。
仕事は、土地家屋調査士;司法書士でした。
貴女の父のすぐ上の兄 正○氏が、同業を継いでいます。
祖父は、その後狭心症を患い、以後自宅で寝床の生活でした。
祖父は、すえの祖母とは20才位の年の差が有りました。


貴女の母方の天○の祖父より10才位年長者でした。
昭和36年(1961)は、大垣の祖父は70才位でしょうか。


所で、天○の祖母の奉公は、家の事情がやむにやまれぬ状態だった、のであろうと察せられます。
と云うのは、2人は、奉公に出されなかったようです。
察するに余程困窮して、口減らしの為だったのであろう、推論ですが…。
親孝行をした事になりますね。その事で家が持ち応えたのであれば…。



下駄屋さんですが…。
祖父は餡こ等つくる菓子職人に、丁稚小僧になりました。
後何かトラブルがあり飛び出したそうです。
次に出会ったのが下駄職人でした。


昭和24-5年頃、私が小学5年の頃、店の横の空き地に桐の木の丸太棒が置かれて有りました。
その木で何足かの下駄を作り納めました。
カンナクズが、店先に山とたまり、それでサツマイモをふかしてくれました。


その商いも順調で、ある時期「主婦の店」と云う許可が下りて、店は大繁盛しました。
貴女の祖母は、活気に満ち溢れていました。



又祖父母は、言葉はあまり上品とは言えませんが、夫婦中の良い人達でした。
先頃噴火がありました御嶽山へ、六根清浄登山した事があります。
私が中学生になった頃と思います。
二人共お互いを頼りにして良い関係だったように思います。
末っ子と長女と云う立場が良かったのかも…。


他に職人は思いあたりませんが、職人の集まる地域ではなく、住宅街に店があると云う所でした。
焼け出される前、本山に住んでいた時、近所に指し物屋とか靴屋とか、コツコツ仕事をしていましたね。
今のように情報がありませんし、私の関心も未熟でした。

以上です。又お元気で☆



゚o。o゚(=^・^=p【実母メル】q=^・^=)゚o。o゚


戦後70年…。
東京大空襲は昭和20年3月10日!!
名古屋大空襲は、同じく3月19日その日焼け出されました


名古屋城焼失が、同じく昭和20年5月14日、B29-480機来襲、と云う事でした。


父 捨次郎は徴兵されましたが、身体検査で発熱の為 不合格となり帰されたそうです。
当時父の年齢は、1945年で43~44才ですから、結果的には良かったと言えます。


今1つ、いつから満年齢で表記することに制令で決まったのか?
時間が許せば調べて見て下さい。


 問題意識を持つと、色んな事に興味が湧きます。
色々有り難う。お疲れ様。お元気で、又☆



゚o。o゚(=^・^=p【実母メル】q=^・^=)゚o。o゚


 黒猫ちゃんの事ですが…、愛知県江南市へ、貴女の姉が1歳半頃引っ越しました。
その家は、大垣の両親の建て替えた古家を移築したものです。


周りが桑畑や畑ばかりでか、ネズミが出て台所のザルまでかじられました。
そんな時、近所の子供さんから、子猫が生まれたと言う事で、貰い受けました。
ネズミも取ってくれました。…
瓢箪山に引っ越しの時、うっかり忘れて置き去りに…。申し訳ないです。









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